G615:源 忠隆 | 源 経基 ― 源 満政 ― 源 忠隆 ― 和田氏家 | G616:和田氏家 | ● |
リンク |
和田氏家 | 和田惟政 |
---|---|
近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏【G751】から分かれたとする説もある。 |
永禄8年(1565年)、三好三人衆・松永久秀らは足利義輝を殺害し、義輝の弟覚慶も奈良に幽閉されたが、細川藤孝ら幕府近習の手引きで脱出、甲賀の和田惟政の館へ逃れた。覚慶は還俗して義昭と名乗り、このとき惟政は義昭の直臣となった。その後の義昭の流寓に従い、義昭が信長の尽力で入京を果たしたとき、信長からその忠節を認められ、摂津半国を与えられて芥川城主となった。 |
和田惟長 | 和田定利 |
元亀2年(1571年)8月、父と共に出陣し、先陣を務めた父が戦死すると後備で控えていた惟長は慌てて逃げ帰ってしまい、諸将の信頼を失った。同3年(1572年)4月、交野城救援のために出陣し、足利義昭の部将として織田信長勢と共闘している。しかし、この頃から15代将軍・足利義昭と信長の対立がはじまり、家臣団の中でもどちらに付くか意見が対立しだしたため、疑心暗鬼に陥ったのか、叔父で後見役であった和田惟増を殺害し、自身は信長に対する忠節の意を申し入れている。 |
『寛政重修諸家譜』によると、兄・惟政と共に足利義昭の入洛に供奉し、その後織田信長に仕えて尾張国黒田城を与えられたという。『信長公記』によれば、織田信清の家老として黒田城主を務めたという。信清が信長に敵対すると、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の中島豊後守と共に信長方の兵を引き入れ、信清は甲斐国に逃亡した。 |
和田信維 | 和田正信 |
天正2年(1574年)、織田信長に従って尾張国黒田城主となった。その後、訳あって故郷に戻り、再び甲賀の和田谷に住した。天正10年(1582年)、本能寺の変後の徳川家康の伊賀越えを助けて功を為し、家康から血判の誓紙を与えられた。 |
文禄元年(1592年)、父・信維の死去に伴い、和田家を継ぐ。池田輝政に仕え、慶長5年(1600年)8月の岐阜城攻めの軍勢に加わり戦功を為した。関ヶ原の戦い後、主君の池田輝政が52万石を領して播磨国姫路城主となると家禄4600石が与えられた。 |
和田三正 | |
元和2年(1616年)に死去した和田正信の養子として近江和田氏の家督を継ぐ。若くして池田忠雄の家老となり、寛永9年(1632年)の鳥取転封時には先に鳥取に向かい、土地の視察や屋敷地の確認などの諸事務を処理した。 |