清和源氏

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和田氏家 和田惟政
 近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏【G751】から分かれたとする説もある。

 永禄8年(1565年)、三好三人衆・松永久秀らは足利義輝を殺害し、義輝の弟覚慶も奈良に幽閉されたが、細川藤孝ら幕府近習の手引きで脱出、甲賀の和田惟政の館へ逃れた。覚慶は還俗して義昭と名乗り、このとき惟政は義昭の直臣となった。その後の義昭の流寓に従い、義昭が信長の尽力で入京を果たしたとき、信長からその忠節を認められ、摂津半国を与えられて芥川城主となった。
 惟政はキリスト教に帰依し、永禄8年入京した宣教師フロイスを庇護し、キリスト教の近畿普及に重要な役割を果たした。また同年三好三人衆が反撃してきたときには、明智光秀らとこれを撃退している。
 元亀2年(1571年)8月、西国街道上の白井河原を挟んで茨木・和田連合軍約500騎と荒木・中川連合軍約2500騎が対峙することとなった。多勢に無勢の激戦の中、惟政は中川清秀に首を取られた(白井河原の戦い)。

和田惟長 和田定利

 元亀2年(1571年)8月、父と共に出陣し、先陣を務めた父が戦死すると後備で控えていた惟長は慌てて逃げ帰ってしまい、諸将の信頼を失った。同3年(1572年)4月、交野城救援のために出陣し、足利義昭の部将として織田信長勢と共闘している。しかし、この頃から15代将軍・足利義昭と信長の対立がはじまり、家臣団の中でもどちらに付くか意見が対立しだしたため、疑心暗鬼に陥ったのか、叔父で後見役であった和田惟増を殺害し、自身は信長に対する忠節の意を申し入れている。
 元亀4年(1573年)には、家中で信望を集めつつあった高山友照・右近親子の暗殺を計画。会議と称して高山親子を誘い出したが、計画は既に高山親子に露見していたため、両者の付添い人を交えての激しい斬り合いとなった。この戦闘で惟長は深手を負ったが、右近もまた重傷を負ったため、その場から伏見まで逃亡したが、3月11日の時点で致命傷のため生存は難しいと目され、その数日後に死去したとされる。
 しかし、子孫と称する江戸幕臣和田氏の記録によると、重傷を負った惟長は奇跡的に回復し生存したが、以後は没落して小野木氏・山岡氏に仕えたのち、最後は徳川氏に仕え幕臣となり、寛永5年4月1日(1628年5月4日)に78歳で没したという。また、『甲賀郡旧牛飼村共有文書』の慶長16年11月1日(1611年12月4日)付の起請文にも「和田伝右衛門尉惟長」という署名が入っている。

 『寛政重修諸家譜』によると、兄・惟政と共に足利義昭の入洛に供奉し、その後織田信長に仕えて尾張国黒田城を与えられたという。『信長公記』によれば、織田信清の家老として黒田城主を務めたという。信清が信長に敵対すると、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の中島豊後守と共に信長方の兵を引き入れ、信清は甲斐国に逃亡した。
 以後は中島と共に永禄12年(1569年)の大河内城の戦い、元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻めに参加。天正2年(1574年)にも中島と共に織田信忠に従い長島攻めに参加するが、この戦いで討ち死にし、弟の八郎(定教)が跡を継いだ。

和田信維 和田正信

 天正2年(1574年)、織田信長に従って尾張国黒田城主となった。その後、訳あって故郷に戻り、再び甲賀の和田谷に住した。天正10年(1582年)、本能寺の変後の徳川家康の伊賀越えを助けて功を為し、家康から血判の誓紙を与えられた。
 山崎の戦いには病のためとして参加せず、羽柴秀吉の怒りにふれてしまったため、家康に秀吉との仲介を頼もうと三河国に向かった。その途中の岐阜で池田恒興に保護され、そのまま池田氏の客将となり、池田輝政の代には馬草料として2300石が与えられた。文禄元年(1592年)夏、京都にて病没。享年58。

 文禄元年(1592年)、父・信維の死去に伴い、和田家を継ぐ。池田輝政に仕え、慶長5年(1600年)8月の岐阜城攻めの軍勢に加わり戦功を為した。関ヶ原の戦い後、主君の池田輝政が52万石を領して播磨国姫路城主となると家禄4600石が与えられた。 
 慶長8年(1603年)、幼い池田忠継に従って備前岡山に移ると、家老に取り立てられ政務を執った。元和2年(1616年)死去。
 没年については異説もある。『鳥取藩史』着座家伝には寛永元年(1624年)に没したとある。

和田三正

 元和2年(1616年)に死去した和田正信の養子として近江和田氏の家督を継ぐ。若くして池田忠雄の家老となり、寛永9年(1632年)の鳥取転封時には先に鳥取に向かい、土地の視察や屋敷地の確認などの諸事務を処理した。
 若くして優れた才能の持ち主であり、将来が有望視されていたが、寛永19年(1642年)3月、江戸に向かう途中に突然発病し京都に於いて没した。享年28(異説あり)。
 室の徳大寺実久の娘との間には実子がなかったため、荒尾嵩就2男・平作を養子にして家督を継がせた。