K007:大彦命 | 大彦命 ― 阿部定時 | AB21:阿部定時 | ● |
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阿部定吉 | 阿部正豊 |
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天文4年(1535年)、主君・松平清康が尾張国那古野城主・織田信秀と対決すべく尾張への侵攻を開始したとき、突如として陣中に定吉謀反の噂が流れた。 清康は親族重臣を信頼していなかったらしくこの噂を信じ始めた。一方、定吉は覚悟を決め、子・正豊を呼んで「もし自分が討たれるようなことがあったら、無罪を証明してほしい」と書状を託した。 その数日後、尾張侵攻に清康の馬が本陣で暴れ出した騒ぎがあり、これを契機に正豊は清康を殺害。正豊自身も植村氏明に咎められ殺された(守山崩れ)。定吉も自害しようとしたが、清康の嫡男・松平広忠はこれを処断せず家臣としている。 |
阿部定吉の嫡男として誕生。天文4年(1535年)、尾張侵攻のため守山に進撃していた松平清康に従軍していたが、その最中、父・阿部定吉が織田信秀に内通して謀反を企んでいるという噂が上がった。清康から粛清される懸念を定吉から聞かされた正豊は、二心なき旨を記した清康宛ての誓紙を渡された。その翌日、本陣で馬が嘶く音を聞いた正豊は清康が父を成敗したと勘違いし、本陣にいる清康を斬り殺害した。正豊は本陣にいた植村氏明に即座に斬殺された(守山崩れ)。この騒動において父・定吉は自害しようとするが静止され、混乱のなかで岡崎城から追放された清康の嫡男・松平広忠と共に伊勢国へ逃亡した。
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阿部忠政 | 阿部正之 |
三河大久保氏の出身で、若い頃より武芸を好み、特に弓術に定評があった。天文14年(1545年)清畷の合戦で初陣して織田信秀軍の侍大将を、翌年の渡の合戦では織田軍の先鋒を射殺する武功を立てた。天文16年(1547年)梅ヶ坪の合戦では敵数名を射倒して味方を撤退を援護し、敵からも称賛を受けた。同年、上野の合戦で阿部定次の嫡子・次重が戦死すると、その婿として阿倍氏の養嗣子となった。 |
天正12年(1584年)、阿倍忠政の3男として三河国にて誕生。徳川秀忠・家光父子に仕え、書院番からのち使番,目付となり、大坂の陣にも従軍した。 |