川原寺跡
かわらでらあと (Kawara-dera Temple Ruins)
【T-NR004】探訪日:1992/10/31・2017/8/27
奈良県高市郡明日香村大字川原
【MAP】
〔駐車場所〕
飛鳥寺(法興寺),薬師寺,大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の1つに数えられた大寺院であったが、中世以降衰微し廃寺となった。現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺が法燈を継承する。また、創建時期についても複数説ある。そのなかでも673(天武天皇2)年3月に「書生を集めて川原寺において初めて一切経を書写した」という『書紀』記事があり、673年以前の創建は明らかで、天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。川原宮は、655(斉明天皇元)年に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌年に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。
平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺,薬師寺,大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず飛鳥の地にとどまった。
川原寺は1070(延久4)年の火災で焼けてしまった旨が知られ、1191(建久2)年にも焼失したことが九条兼実の日記『玉葉』に記載されている。鎌倉時代にはいったん再興されるが、かつての勢いを取り戻すことはなく、室町時代末期に雷火で再び焼失して以降、再建されることなく廃寺となったものと思われる。その後、江戸時代中期に中金堂跡に弘福寺が建立され、現在に至っている。
伽藍配置は発掘調査の結果、一塔二金堂式の特異なものであったことが判明し、川原寺式伽藍配置と称されている。川原寺では中門左右から出た廻廊が伽藍中心部を方形に区切り、廻廊の北辺中央に中金堂が位置する。廻廊で囲まれた区画内には中金堂の手前右(東)に五重塔、西に西金堂が建つ。西金堂は現存する唐招提寺金堂と同様に正面を吹き放ち(建具や壁を入れずに開放とする)とした建築であり、中金堂は正面三間×側面二間の母屋の四方に吹き放ちの庇をめぐらした開放的な建物であったことがわかっている。これらの建物は後にことごとく失われ、礎石のみが残っている。中金堂の礎石には他に類例のない大理石の礎石が使用されている点が注意される。また、川原寺から出土する創建時の瓦は、複弁蓮花文瓦と呼ばれる8枚の花びらのそれぞれを2つに分けた形式の複雑なデザインのもので、これが以後の瓦文様の主流となった。