高徳院(鎌倉大仏)
こうとくいん(かまくらだいぶつ)(Kotoku-in Temple[Kamakura Great Buddha])
【T-KN023】探訪日:2008/5/1
神奈川県鎌倉市長谷4丁目2-28 <📲:0467-22-0703>
【MAP】
〔駐車場所〕
高徳院は鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像)を本尊とする浄土宗寺院であり、法然上人を開祖とする説もあるが、開祖,開基ともに不明であり、また大仏の造像の経緯についても史料が乏しく不明な点が多い。寺の草創については、材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが定かではない。初期は真言宗で、極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711~16年)に江戸増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し「清浄泉寺高徳院」と院号も改め光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。
大仏については、1252(建長4)年から深沢里にて金銅八丈の阿弥陀如来像の造立が開始された(『吾妻鏡』)とするのが定説である。1238(暦仁元)年に僧・浄光の勧進によって大仏堂の建立が始められ、5年後の1243(寛元元)年に開眼供養が行われたという記述もあるが、この大仏は木造であり何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとされている。
また、大仏は元来、大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の破壊にも諸説あり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は1369(応安2)年に倒壊しており、境内発掘調査の結果ではそれ以後に大仏殿が再建された形跡は見出されていない。一説に1495(明応4)年の地震と津波で倒壊したとされるが、1486(文明18)年に鎌倉を訪れた禅僧・万里集九が、大仏は「無堂宇而露坐」であったと記しており、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている。
江戸中期、前述のように、祐天上人が荒廃が進んだ大仏を浅草の商人野島新左衛門の喜捨を得て、養国とともに復興に努め、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の奥之院に位置づけた。
銅造阿弥陀如来坐像は、像高約11.39m(台座を含め高さ13.35m),面長2.35m,眼長1m,眉長1.24m,口広0.82m,耳長1.9mで重量約121トン。角張った平面的な面相,低い肉髻,猫背気味の姿勢,体部に比して頭部が大きい点など、鎌倉期に流行した宋風の仏像の特色を示している。なお、像の原型の作者は不明であり、鋳造には河内の鋳物師の丹治久友が関わっていることが判明している。本像の金属組成分析からは鉛の含有量が多いことが判明しており、像表面の金メッキは困難と推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できる。像内は空洞で人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができる。
【史跡規模】 |
【指 定】鎌倉大仏殿跡:国指定史跡(2004年2月27日指定) |
関連時代 | 鎌倉時代 | 南北朝時代 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 | 1252年 | 1369年 | 1711~16年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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法然上人 | **** | 忍性 | **** | 祐天上人 | **** |
野島新左衛門 | **** | 養国 | **** |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲【転載】仁王門
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▲右頬目じり横に金箔の跡
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▲大仏内部(首の辺り)
▲【転載】観月堂
▲【おまけ】境内の木に遊ぶリス
▲【おまけ】境内の木に遊ぶリス