今川氏親墓所〔増善寺〕
いまがわうじちか ぼしょ〔ぞうぜんじ〕(Grave of Imagawa Ujichika [Zozen-ji Temple])
【K-SZ056】探訪日:2025/3.23
静岡県静岡市葵区慈悲尾302
【MAP】
〔駐車場所〕増善寺の参詣者用駐車場がある。
1526(大永6)年6月23日、駿府の今川館で息を引き取った駿河・遠江守護で今川氏第9代当主の今川氏親の墓所である。葬儀は増善寺で曹洞宗最高の法式で執行され、同寺に葬られた。
氏親の父・今川義忠が塩買坂での戦いにおいて、横地氏,勝間田氏ら遠江を地元とする国人衆の残党に襲われ戦死すると、龍王丸(のちの氏親)と小鹿範満(父の従兄弟)との間で家督争いが起こったが、幕臣・伊勢盛時(氏親の叔父:北条早雲)の調停で、範満が龍王丸の後見人として家督を代行する形で決着した。しかし、龍王丸成人後も範満は家督を返そうとはしなかったため、盛時の助けを借り、今川館を襲撃して範満を討った。
その後も伊勢盛時と協力し、もともと今川氏が守護職を継承していた遠江国への進出を図り、1508(永正5)年には、氏親は正式に幕府から遠江守護に任じられたことで、遠江支配の大義名分を得た。この間、宗瑞(出家して盛時より改名)も関東進出を図り、氏親も協力している。また、宗瑞率いる今川軍は三河・尾張国にも侵攻して、松平氏,織田氏と戦っている。これにより岩津松平家が衰退し、安祥松平家が台頭していく。氏親は新たな領国となった遠江の支配を固めるために1518(永正15)年以降、検地を実施した。また、安倍金山の開発によって財力を増した。
晩年は中風にかかって寝たきりになり、妻の寿桂尼が政治を補佐した。死の2ヶ月前の1526(大永6)年4月には戦国時代の代表的な分国法『今川仮名目録』を制定している。嫡男・氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的であった。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1526年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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今川氏親 | G360 |