臨済寺
りんさいじ(Rinsai-ji Temple)
【T-SZ007】探訪日:1988/4.17・2025/3.24
静岡県静岡市葵区大岩町7-1 <📲:054-245-2740>
【MAP】
〔駐車場所〕参詣者用駐車場がある。
享禄年間(1528~32年)に、今川氏親が出家した子の栴岳承芳(のちの今川義元)のために、母・北川殿(今川義忠室)の別邸跡に、太原雪斎を招き建立した寺院・善得院が前身である。
1536(天文5)年、栴岳承芳の兄・今川氏輝が急逝したため、今川家の家督を巡る「花倉の乱」が起き、弟の玄広恵探を破り家督を次いだ今川義元は、同年、氏輝を当寺に葬った。この際に、氏輝の法名に由来する「臨済寺」と改め、京都妙心寺霊雲院の大休宗休を開山とした。そして、実際の運営を掌る2代目の住持として、大休宗休の弟子・太原崇孚雪斎が招かれた。雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、今川領国内に臨済宗を広げたため、寺勢は大いに興隆した。さらに雪斎は、当寺の住持の任にありながら、戦国大名・今川氏の軍師としても義元の下で政治・軍事・外交に秀でた手腕を発揮してこれを補佐した。また、今川氏人質時代の松平竹千代(のちの徳川家康)の師としても、書・兵法などの教育にあたっている。
当寺は今川館(現在の駿府城)の北西の賤機山の麓に位置する。賤機山麓には天沢寺など多くの歴代今川氏縁の寺院があったとされるが、その多くは廃寺となり当寺に吸収されている。氏輝,太原雪斎らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されている。
1568(永禄11)年、武田信玄による駿河侵攻が開始され、駿府城下に火が懸けられたため、臨済寺の堂宇も灰燼に帰したが、1582(天正10)年の武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康が正親町天皇の勅命によって復興・整備を進め、現在も残る本堂が再建されるなど盛時の姿を取り戻した。その後も駿府が徳川幕府直轄地となった江戸期を通じて徳川氏の手厚い庇護を受けた。
江戸時代前期建立の本堂(大方丈)は入母屋造,こけら葺で、方丈形式の平面をもつ本堂である(国重文)。山門には神仏分離により静岡浅間神社から移設された仁王像が安置されており、山号「大龍山」の額は、徳川慶喜の揮毫によるものである。大書院の内部には竹千代御手習いの間が残されている。
なお、背後の賤機山山頂には今川家の詰城である賤機山城跡がある。
【史跡規模】 |
【指 定】名勝:臨済寺庭園(1936年9月3日指定) 【国 宝】 【国重文】本堂:江戸時代前期(17世紀)建立 |
関連時代 | 戦国時代 |
関連年号 | 1528~32年・1536年・1568年・1582年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
今川氏親 | G360 | 今川義元 | G361 | 太原雪斎 | **** |
今川氏輝 | G360 | 大休宗休 | **** | 松平竹千代(徳川家康) | TG01 |