高天神城跡(西峰)

たかてんじんじょうあと(にしみね)(Takatenjin Castle Ruins [West Peak])

【C-SZ013b】 探訪日:1988/5.3・2019/8.26・2014/10.12

【C-SZ013b】高天神城跡(西峰) 静岡県掛川市上土方嶺向

【MAP】

〔駐車場所〕搦手口入口にいくつかの北口駐車場がある。

【C-SZ013b】高天神城跡(西峰)

   築城年代は定かではない。1191(建久2)年に土方次郎義政が城砦を築いたとの伝承があるが、確認できる文献も考古学的発見もなされていない。1471(文明3)年に今川氏親の重臣・福島正成が城主として高天神城に入城している。『高天神を制するものは遠州を制す』と称されるほど重要な城であり、武田氏と今川,徳川氏によって攻防が繰り広げられた。福島氏は1536(天文5)年の花倉の乱により没落し、その後は今川氏に服属した小笠原右京進春儀が城代となり、弾正忠氏興(氏清),与八郎長忠(信興)と続く。
 1560(永禄3)年5月の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、武田信玄は徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、これにより今川氏は滅亡し小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興,長忠父子は徳川氏の家臣となった。しかし、まもなく武田,徳川両氏は敵対関係に入り、駿河,遠江の国境近くにある高天神城はその角逐の舞台となる。
 1571(元亀2)年3月、武田信玄は兵25,000騎で高天神城を包囲するが、小笠原氏は城兵2,000騎で籠城し武田軍を撃退した。信玄の死後、その子・勝頼も1574(天正2)年に高天神城を攻撃,猛攻を加え二ノ丸を陥落させた。城主・小笠原長忠は織田,徳川の援軍を期待したが、徳川単独で援軍を出す力はなく、織田軍も各地の一向一揆の対処のために援軍が送れず、絶望した長忠はついに降伏し高天神城は開城した。長忠は武田方に臣従を誓い、ともに籠城していた大須賀康高などは逃がされて浜松まで落ち延びた。信玄でも陥とせなかった高天神城を落城させたことは、当時の武田勝頼の武名を大きく上げることとなった。
 1575(天正3)年5月、武田氏は長篠の戦いで大きな損害を受ける。勝頼は高天神城の拡張を行って縄張りを西側の峰の範囲まで広げ、城代として今川旧臣の岡部元信を任命した。一方、徳川家康は二俣城諏訪原城などを奪取することで武田氏の補給路を封じ、さらに1580(天正8)年にはいると、付城として横須賀城をはじめ6つの城砦(高天神六砦)を築いて締め付けを強化した。
 そして、同年9月、徳川軍は満を持して兵5,000騎で高天神城を包囲し攻撃。岡部元信は1,000程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた(城側は降服を申し出るも受け入れられなかった)。勝頼も東西に敵を抱える状況で援軍を送れず、ついに翌1581(天正9)年3月、逃亡する城兵が続出し城代・岡部元信以下ことごとくが討死して高天神城は陥落した。武者奉行の孕石元泰は切腹させられている(家康には孕石に対し今川氏の人質時代の遺恨があった)。また、軍監の横田尹松は西側の尾根を伝って脱出に成功し、甲斐の勝頼に落城の事実を報告している。高天神城は焼き払らわれ廃城となり、以後は横須賀城が拠点となった。
 高天神城は西の山塊から東へ伸びた丘陵の標高132mの高天神山に築かれている。城は大きく東西二つの峰に分かれており、本丸のある東峰が古く、垂直に近い急峻な地形を利用して土塁などで防御する構造であるが、西峰はその後の拡張によって改修された部分で大堀切や横堀によって防御する構造となっている。東峰は南側に追手門、北側が搦手門を配する。両峰をつなぐ井戸曲輪(東峰とする)の東に的場曲輪,本丸が配され、本丸の南東に御前曲輪があり低い段差でつながっている。御前曲輪の南東下には小笠原与左衛門曲輪とも呼ばれる三の丸がある。また、本丸の北側の壁面には大河内源三郎政局が8年以上にわたり幽閉されていた「大河内石窟」が残されている。一方、西峰は高天神社の境内となっている所が西の丸で、その南西尾根に馬場平、その西に続く尾根が横田尹松の脱出ルートとされる「犬戻り・猿戻り」である。西の丸の北下に二の丸,堂の尾曲輪,井楼曲輪と続く。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1975年10月16日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1191年 1471年 1536年・1571年・1574年・1580年・1581年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
土方義政 G*** 福島正成 **** 小笠原春儀 G454
小笠原氏興(氏清) G454 小笠原長忠(信興) G454 武田信玄 G433
徳川家康 TG01 武田勝頼 G433 大須賀康高 H455
岡部元信 F010 孕石元泰 **** 横田尹松 G754
大河内政局 G***

 

【C-SZ013b】高天神城跡(西峰)
 築城年代,城主(城代)を調べていくと、いくつかの説があり、はっきりしない。確かなのは1571年に武田信玄が来襲した頃からだろう。武田勝頼は父信玄が落とせなかった高天神城を落とし名声を上げたが、のちに高天神城が窮地に陥った時に援軍を送れず、そこを信長によってネガティブキャンペーンのネタにされて武田氏滅亡につながってしまったことはひじょうに皮肉なことである。もとは徳川方の城で、その弱点もわかっていたのだろうが、兵糧攻めでしか落とせなかったのは、高天神城の堅固さを物語っていると思う。何回訪れても新たな発見(気づき),感動を与えてくれる山城である。

 

【C-SZ013b】高天神城跡(西峰)

 

 

高天神城縄張図(『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)』に加筆)

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井戸曲輪から西の丸へ 西の丸の高天神社 高天神社 西の丸と馬場平の間の堀切 西の丸と馬場平の間の堀切 西の丸と馬場平の間の堀切 堀切から見た南の眺望 馬場平 馬場平 犬戻り・猿戻り(甚五郎抜け道) 犬戻り・猿戻り(甚五郎抜け道) 井戸曲輪から右へ進む 二の丸 二の丸跡 二の丸の土塁 二の丸 袖曲輪 天正二年戦死者碑 本間氏清,丸尾義清戦死の地 二の丸,袖曲輪と堂の尾曲輪の間の堀切 二の丸,袖曲輪と堂の尾曲輪の間の堀切 袖曲輪から見た堀切 空堀 横堀 横堀から堂の尾曲輪を見上げる 堀切から堂の尾曲輪へ上がる 堂の尾曲輪から見た堀切 堂の尾曲輪から西の横堀を見下ろす 堂の尾曲輪 堂の尾曲輪(西には土塁がある) 堂の尾曲輪の土塁 堂の尾曲輪の北端 堂の尾曲輪と井楼曲輪の間の堀切 堂の尾曲輪と井楼曲輪の間の堀切 井楼曲輪へ 井楼曲輪 井楼曲輪 井楼曲輪