坪内逍遥生誕の地
つぼうちしょうよう せいたんのち(Birthplace of Shoyo Tsubouchi)
【Z-GF007】探訪日:2024/3.27
岐阜県美濃加茂市太田本町5丁目4 逍遙公園
【MAP】
〔駐車場所〕
1859(安政6)年5月22日、太田代官所の手代であった坪内平右衛門信之と松屋藤兵衛の娘ミチの間に10人兄弟の末っ子として生まれた小説家,評論家,翻訳家,劇作家の坪内逍遥(本名:坪内雄蔵)の生誕地である。
明治維新とともに一家で実家のある名古屋の笹島村へ戻り、母の影響で文学に心酔し、愛知外国語学校(現・愛知県立旭丘高等学校)時代に岐阜県の選抜生となり1876(明治9)年に東京開成学校入学、東京大学文学部政治科を1883(明治16)年に卒業して文学士となる。
その後、早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり、後に早大教授となった。1884(明治17)年にウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳『泰西活劇 春窓綺話』(共訳、服部誠一名義),シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』を出版した。
1885(明治18)年に評論『小説神髄』を発表。小説を美術(芸術)として発展させるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。またその理論を実践すべく小説『当世書生気質』を著した。
1890(明治23)年以降はシェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手し、戯曲の執筆を進める。1909年『ハムレット』に始まり1928年『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。
晩年は静岡県熱海市に建てた双柿舎に移り住み、最後までシェイクスピア全集の訳文改訂に取り組み、『新修シェークスピア全集』刊行とほぼ同時期、1935(昭和10)年2月28日、感冒に気管支カタルを併発し、双柿舎にて死去した。享年77。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:後期 |
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関連年号 | 1859年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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