伊久良河宮跡〔天神神社〕
いくらがわのみやあと〔てんじんじんじゃ〕(Ikuragawa Palace Ruins [Tenjin Shrine])
【P-GF002】探訪日:2024/2.27
岐阜県瑞穂市居倉
【MAP】
〔駐車場所〕
垂仁天皇の時代、倭姫命が天照大御神をお祀りするのに最もふさわしい地を求めて、大和からに伊賀・近江を経て、この居倉の地に4年間留まられたのち、遷宮地・伊勢に至った。現在は天神神社となり、天照大御神を安置したといわれる御船代石がある。「御船代」とは、伊勢神宮で御神体が納まる「御樋代」をさらに納める船形の器をいう。
『日本書紀』によれば、崇神天皇6年に国内情勢が不安定になった際、天皇は天照大御神と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を宮中に祀ったことが原因と考え、天照大御神を豊鍬入姫命に憑けて倭の笠縫邑に祀らせたという(倭大国魂神は渟名城入姫命に憑けて祀らせたが失敗した)。その後、天照大御神は豊鍬入姫命から離され、第11代・垂仁天皇の皇女・倭姫命に託されて諸地方遍歴の末、伊勢に行き着くこととなる(伊勢神宮起源譚)。現在の伊勢神宮に遷宮される以前に、一時的に祀られたという伝承を持つ場所を「元伊勢」といい、伊久良河宮跡もそのひとつである。
御船代石は、大御神の神体である八咫鏡が安置されたとされる一対の石で、その周辺は神聖な場所として、決して足を踏み入れてはいけない御禁足地とされた。ちなみに、古代の神社には社殿がなく、山,岩石,緑ゆたかな叢林を神の御座所としていた。この地は北側に伊久良川が流れ、神社境内を堤防で囲んで聖地を区画し(結界を張って)、その中心に御船代石を置いた壇を設けたと考えられる。4年後、倭姫命は美濃を発ち尾張を経て、伊勢に神宮を創建し八咫鏡を奉斎する。
のちに伊久良河宮跡には御船代石や叢林というような古代の神社形態を残しつつ天神神社が建てられた。御船代石の後ろ(北側)の右に天照大神と豊受大御神を祭神とする神明神社、左に倭姫命を祭神とする倭姫命神社が祀られている。また、江戸時代の居倉には旗本青木氏の陣屋があり、1700(元禄13)年に流れ造りの本殿と社領が寄進された。本殿の前の二基の石灯籠もほぼ同時期のものである。