長福寺

ちょうふくじ(Chofuku-ji Temple)

【T-AC097】探訪日:2023/4.27

【T-AC097】長福寺 愛知県豊川市赤坂町西裏99 <📲:0533-87-2812>

【MAP】

〔駐車場所〕 赤坂休憩所(よらまいかん)の駐車場が利用できる。

【T-AC097】長福寺

   長保年間(999~1004年)、三河国司として赴任した大江定基との別れを悲しんで自害した赤坂の長者(宮路長富)の娘・力寿姫の菩提を弔うために長富によって建てられたと伝わる。当初は長富寺といい、1522(大永2)年に長福寺と改称された。観音堂には定基は姫の菩提を弔うために寄進したとされる観音立像(県指定文化財)がある。また、山中には姫の墓がある。境内に推定樹齢300年の市指定記念物ヤマザクラがある。
 大江定基は 986~1011(寛和2〜寛弘8)年に三河国司として任ぜられ、数年間在地したが、その間に力寿姫と相思相愛になり、大江定基が赴任を終え京に戻ることになったとき、力寿姫はその別離を苦しんで舌を噛み切って亡くなったという。
 ただ、定基にまつわる恋話としては、いくつかの説話が残されている。定基は赴任する際、元の妻と離縁し別の女性を任国に連れて行ったとする説(『今昔物語集』)、力寿は赤坂宿の遊女とする説、そして自害ではなく、風邪がもとで重病となって亡くなったという説もある。そして、その菩提を弔うために建てられた寺も長福寺のほかに、西明寺,力寿山舌根寺や胎蔵寺がある。
 なお、定基はその後、988(永延2)年に寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し寂照として、叡山三千坊の一つ如意輪寺に住み、横川で源信に天台教学、仁海に密教を学んだ。1003(長保5)年には宋へと渡海し、蘇州の僧録司に任じられ、皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った。そして、日本に帰国することがないまま杭州で没した。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:中期 戦国時代
関連年号 999~1004年 1522年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大江定基(寂照) OE04 宮路長富 **** 力寿姫 ****

 

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【T-AC097】長福寺

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薬医門 本堂 鐘堂 長福寺のヤマザクラ 境内から観音堂へと登る石段 熊野谷観音 南からの観音堂(長福寺)への入り口