仏坂竹馬寺十一面観世音菩薩
ほとけざかちくまんじ じゅういちめんかんぜおんぼさつ(Juichimenkanzeonbosatsu in Hotokezaka Chikuman-ji Temple)
【Z-SZ010】探訪日:2023/2.4
静岡県浜松市北区引佐町伊平939
【MAP】
〔駐車場所〕 境内に駐車スペースがある。
十一面観音の起源に関しては詳らかではないが、摩訶耶寺の縁起書によれば、霊亀年間(715~717年)に行基によって彫られた等身大(高さ163cm)の木仏像とされる。
1572(元亀3)年、武田信玄の西進の際、三方ヶ原の戦いの前哨戦として武田の将・山県昌景と徳川方の鈴木重好,近藤秀用,井平直成ら井伊勢が仏坂で激戦(仏坂の戦い)となったが、十一面観音は殺戮放火を予測した修験者によって事前に気賀の観行院に密かに移され難を逃れた。
そのため仏坂には尊像の不在が続いたが、地元民の菩薩への恭敬の念は募り、1671(寛文11)年には聖観世音の石仏が宝林寺2世・香山禅師の開眼供養を受け、この地に奉安され、百数十年間、仏坂の観音様として信仰された。
その後、気賀観行院に避難安置された十一面観音に対し、伊平や近隣の人々から仏坂への復座の願望が出され、1789(天明9)年には仏坂に尊像を迎えることができた。明治時代の排仏毀釈政策で一時は遷座を余儀なくされたが、区民協議の結果、再度、仏坂に帰座した。
従来は33年に1度の御開帳であったが、近年11年に見直されている。
また、観音堂東側の山林内には矢場の跡地がある。明治時代に作られ使用されてきたが、1955(昭和30)年2月に仏坂矢場としては最後の奉納弓道大会が実施された。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 奈良時代 | 戦国時代 | 江戸時代:前期 |
---|---|---|---|
関連年号 | 715~717年 | 1572年 | 1671年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
---|---|---|---|---|---|
行基 | **** |
仏坂竹馬寺十一面観世音菩薩(「ま~くんのブログ」より転載)