誉田八幡宮

こんだはちまんぐう(Konda Hachimangu Shrine)

【S-OS008】探訪日:2017/11.13

【S-OS008】誉田八幡宮 大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8 <📲:072-956-0635>

【MAP】

〔駐車場所〕

【S-OS008】誉田八幡宮

   社伝によると、559(欽明天皇20)年、任那の復興を目指した欽明天皇によって、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。この地は応神天皇が幼少の頃に居住していたところとされ、また、皇后の仲津姫はこの地を治める誉田真若王の娘でもあり、応神天皇にとって特別なゆかりの地である。
 奈良時代には行基によって神宮寺である長野山護国寺が境内に創建されている。1051(永承6)年には創建の地より1町ほど南にある現在地に遷座し、後冷泉天皇による行幸が行われた。
 八幡神が源氏の氏神とされることから、1196(建久7)年には源頼朝によって社殿が修復され国宝の神輿などが寄進されている。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、1454(享徳3)年から始まった河内守護・畠山氏の内紛により社殿,伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国や九州に逃れていった。
 河内国を支配下に置いた織田信長により社領は全て没収されたが、その後、豊臣秀吉により社領200石が寄進されて社殿が再建された。しかし1586(天正14)年に焼失してしまう。1606(慶長11)年には豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して本殿,中門,拝殿などの再建を始めるが、途中に大坂の陣及び豊臣氏の滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
 神宮寺の長野山護国寺は搭頭十五坊を誇っていたが、明治初年の神仏分離,廃仏毀釈により本堂などの建物が取り壊され、南大門のみが残された。明治時代には幕末の剣客として知られる桃井直正が宮司を務めた。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】金銅透彫鞍金具2具(古墳時代)

     ・塵地螺鈿金銅装神輿1基(鎌倉時代:伝・源頼朝寄進) 

【国重文】・誉田宗廟縁起3巻(室町時代)  ・神功皇后縁起2巻(室町時代)

     ・蔦松皮菱螺鈿鞍1背(鎌倉時代) 

     ・後撰和歌集 巻二十 伏見天皇宸翰1巻(鎌倉時代)

     ・舞楽面 天童1面(鎌倉時代)  舞楽面 陵王2面(鎌倉時代)

関連時代 古墳時代:後期 平安時代:中期 鎌倉時代 室町時代 江戸時代:前期
関連年号 559年 1051年 1196年 1454年 1606年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
応神天皇 K201 欽明天皇 K302 行基 ****
源 頼朝 G202 豊臣秀吉 ZZ01 豊臣秀頼 ZZ01
片桐且元 G637 桃井直正 G371

 

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鳥居 拝殿 拝殿 拝殿 【Wikipediaより転載】当宗社(式内社) 恵比寿社 誉田林古戦場址碑 南大門(旧長野山護国寺の南大門)