吉備池廃寺跡
きびいけはいじあと (Kibiike Abandoned Temple Ruins)
【T-NR046】探訪日:2022/7/2
奈良県桜井市橋本51−16
【MAP】
〔駐車場所〕
1997~2000(平成8~12)年度の発掘調査の結果、その一部が近世溜池の吉備池南に水没(重複)しているが、大規模伽藍の存在が確認され、639(舒明天皇11)年に舒明天皇によって建立された百済大寺の遺構に比定する説が確実視されている。
伽藍は法隆寺式伽藍配置で、金堂,九重塔,中門,回廊,僧房の遺構が検出され、伽藍の北半分が吉備池と重複するかたちとなっている。その伽藍規模は同時代の国内寺院をはるかに凌ぎ、新羅の皇龍寺や文武朝の大官大寺に匹敵する。
百済大寺は大安寺の前身寺院であり、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』等の伝承では厩戸皇子創建の熊凝精舎(熊凝寺/熊凝道場)に起源を持ち、639年に百済宮とともに大寺が建立され、百済川のほとりに九重塔が建立された。その後、百済大寺は673(天武天皇2)年に高市大寺に移され、677(天武天皇6)年には大官大寺と改称された。701(大宝元)年に文武天皇によって藤原京新造に伴い移転されたのち、716(霊亀2)年には平城京遷都に伴い再び奈良に移転されて現在の大安寺となる。平城京遷都後には条里制が施工され、ここは水田化したとみられる。その後、近世期には伽藍跡の北半において農業用溜池として吉備池が築造された。吉備池の築堤は金堂,塔の基壇を取り込む形で築造されている。