履中天皇磐余稚桜宮跡(稚桜神社)
りちゅうてんのう いわれのわかざくらのみやあと(わかざくらじんじゃ)
(Iware-Wakazakura Palace Ruins of Emperor Richu [Wakazakura Shrine])
【P-NR015】探訪日:2022/7/2
奈良県桜井市池之内1000
【MAP】
〔駐車場所〕
桜井市池之内の稚桜神社は第17代・履中天皇の宮跡とされる。ただ、桜井市谷にある同名の若桜神社も伝承地に挙げられている。
履中天皇は、400?(履中天皇1)年2月に即位し翌年に磐余に遷都した。『日本書紀』によれば、即位3年11月、皇后と磐余の市磯池で遊宴中に、膳臣余磯が献じた酒の盃に季節外れの桜の花が舞い落ちた。天皇は、物部長真胆を召して桜の花がどこから迷い込んで来たのか調べさせたところ、長真胆は掖上の室山でその桜の木を捜し出し天皇に献上した。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名を磐余稚桜宮と名付けたという。この日、余磯と長真胆の二人はそれぞれ稚桜部臣,稚桜部造の氏姓を得た。
履中天皇は仁徳天皇の第一皇子で5世紀前半に実在したとみられる天皇であり、中国の『宋書』に見える「倭の五王」の倭王「讃」に比定される(別説もあり)。即位2年11月には磐余の池を造成した。国政には蘇我満智,物部伊莒弗,平群木菟,葛城円らを参画させ、即位4年8月、諸国に国史と呼ばれる書記官を設置し国内の情勢を報告させ、即位6年正月には蔵職と蔵部を興した。405?(即位6)年3月に病気のため磐余稚桜宮で崩御し、百舌鳥耳原南陵に葬られた。