極楽寺坂切通し
ごくらくじざか きりとおし (Gokurakujizaka Kiritoshi)
【Z-KN003】探訪日:2008/5/1
神奈川県鎌倉市極楽寺
【MAP】
〔駐車場所〕
鎌倉七口のひとつ。鎌倉七口の中では最も西南に位置し、神奈川県鎌倉市の極楽寺方面から由比ヶ浜方面に抜ける切通しである。鎌倉時代初期には極楽寺坂切通しはまだなく海岸沿いの稲村路が使われていたと考えられている。極楽寺の寺伝によれば、同寺の実質的な開祖である真言律宗の僧・忍性が最初に切り開いたとされ、忍性の入寺と没年から、1267(文永4)年から1303(乾元2)年の間に開かれたことになる。それ以降は、こちらが主要な交通路となった。
1333(元弘3)年、新田義貞が鎌倉に攻め入る。武蔵国の分倍河原の戦いで勝利し、藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を巨福呂坂,化粧坂方面と極楽寺坂方面に分け、鎌倉攻略を図った。極楽寺方面は大館次郎宗氏,江田三郎行義を大将とし攻め入るが、鎌倉幕府軍は大仏陸奥守貞直が大将として迎え撃ち、新田軍はこれを破ることができずに大館宗氏はここで戦死する(十一人塚)。巨福呂,化粧坂方面から応援に駆けつけた新田義貞は、極楽寺坂切通しの突破は困難と判断、稲村ヶ崎の海岸線(稲村路)を通って鎌倉へと侵入し幕府を滅ぼした。
鎌倉七口のうち極楽寺坂切通しは、現在は普通の車道として整備されているため、過去の路面よりも広く深く掘削されており、元の切通しとしての路面の高さは、切通しに並行する成就院の門に至る道とほぼ同じであったと推測されている。