讃岐国分寺跡
さぬきこんぶんじあと (Sanuki Kokubun-ji Temple Ruins)
【T-KG001】探訪日:2019/7/21
香川県高松市国分寺町国分2090−4
【MAP】
〔駐車場所〕
聖武天皇が741(天平13)年に発した「国分寺建立の詔」により、国分尼寺とともに当時流行していた疫病や天災,内乱を仏教の力で鎮めることを目的として建立された。讃岐国の国分寺は国府から北東2.5km、讃岐国分尼寺は国分寺から北東約2kmのところに建立された。しかし、古代国家の体制変化に伴い国家の庇護を失ったことで困窮し、10世紀末には僧房で僧侶が生活しなくなり、国家鎮護の寺から民衆の信仰に支えられた寺へと変わっていった。
鎌倉時代には現在の国分寺本堂が建立された。近世に入ってから真言宗寺院として中興され、寛文年間(1661~73年)には高松藩主・松平頼重によって修復がなされ、文化年間(1804~18年)にも藩主・松平頼儀により本堂の修復されている。
国分寺跡の過去数10回に及ぶ発掘調査では、築地塀跡,回廊跡,鐘楼跡,僧房跡,掘立柱建物跡等が確認され、境内に残る金堂跡や塔跡などの礎石と併せて讃岐国分寺伽藍の概要が明らかになっている。寺域は東西約220m×南北約240mで、寺域の中軸線の西寄りに伽藍が配置され、南から南大門,中門,金堂,講堂,僧房が一直線に並び、中門と金堂を結ぶ回廊に囲まれた区画の東側に塔を置く「大官大寺式」の配置であったことが明らかとなっている。また、寺域の周囲には築地塀と呼ばれる大きな土塀が巡らされていた。
各国の国分寺は衰退して廃絶を余儀なくされた箇所も多いが、讃岐国分寺は大名の庇護や八十八ヶ所霊場の札所としての影響もあり、現在まで法灯が続いている。
【史跡規模】 |
【指 定】特別史跡(1952年指定) |
関連時代 | 奈良時代 | 鎌倉時代 | 江戸時代:前期 | 江戸時代:中期 |
---|---|---|---|---|
関連年号 | 741年 | 1661~73年 | 1804~18年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
---|---|---|---|---|---|
聖武天皇 | K308 | 松平頼重 | MT91 | 松平頼儀 | MT91 |
残念ながら現地に着いたのは午後5時を過ぎており、すでに閉門されていた。下記の境内の写真はいずれもWikipedia等から転載させていただいたものである。機会があれば、再度訪れることにしたい。
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲仁王門
▲
▲
▲
▲
▲
▲【転載】金堂跡の礎石
▲【転載】国分寺本堂
▲【転載】銅鐘
▲
▲【転載】塔跡の礎石
▲【転載】鐘楼跡
▲【転載】僧房跡礎石と覆屋
▲【転載】覆屋内部
▲【転載】石製伽藍配置模型
▲【転載】築地塀(復元)