日吉大社
ひよしたいしゃ (Hiyoshi-taisha Shrine)
【S-SG005】探訪日:2016/10/15
滋賀県大津市坂本5丁目1-1 <📲:077-578-0009>
【MAP】
〔駐車場所〕
全国に約3,800社ある日吉,日枝,山王神社の総本社である。通称、山王権現とも呼ばれ、猿を神の使いである神猿(まさる)としている。西本宮と東本宮を中心に、境内は国の史跡に指定されている。
東本宮の祭神である大山咋神については『古事記』に初見され、日吉社は日枝の山(のちの比叡山)から現在の地に移されたという。東本宮は、牛尾山(八王子山)山頂にある大山咋神が降り立ったという磐座・金大巌を挟む牛尾神社と三宮神社のうち、牛尾神社の里宮として、比叡山の地主神である大山咋神を祀るために崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
西本宮については、668(天智天皇7)年に大津京鎮護のため大和国大神神社の祭神である大物主神を大己貴神として勧請し、新たに建てて祀ったという。以降、元々の神である東本宮の大山咋神よりも、西本宮の大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
788(延暦7)年になると、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬する。そして、794(延暦13)年の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当たることから鬼門除け,災難除けの社として国から崇敬されるようになった。
やがて、延暦寺と日吉社の神仏習合の動きが出て、次第に一体化していき、平安時代中期には八王子山の奥に神宮寺が建てられた。また、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになっていく。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建されていった。
1095(嘉保2)年、延暦寺の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出して(神輿振り)、都(朝廷)に向け強訴を行なったのをきっかけに、これ以降、延暦寺および日吉社は度々この神輿を使っての神輿振り,強訴を繰り返し行い、平安時代から室町時代にかけての370余年の間に40数回行われている。
しかし、1571(元亀2)年の織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社も全て焼かれて灰燼に帰した。現在見られる建造物は、1586(天正14)年から1597(慶長2)年にかけて豊臣秀吉と徳川家康によって再建されたものである。特に秀吉は当社の復興に尽力したが、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことからとされる。
1868(明治元)年、神仏分離令が出ると日吉社は率先して仏教色を一掃し、延暦寺から独立して社名を日吉大社とした。分離令直後、日吉大社社司の樹下茂国が延暦寺に対して日吉大社の引き渡しを要求したが拒否され、近在住民らとともに社殿に乱入して仏像や経典などの破壊,焼き捨てを行った。これは廃仏毀釈が全国に広がる発端となった。
また、本来の祭祀の形に戻すとして西本宮と東本宮の祭神を入れ替え、西本宮に大山咋神を祀って主祭神とし、大己貴神(大物主神)を祀ることとなった東本宮は摂社の大神神社として格下げとなった。ただ、1928(昭和3)年には、再び西本宮と東本宮の祭神を入れ替え江戸時代までの形に戻している。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡:日吉神社境内 |
関連時代 | 古墳時代 | 奈良時代 | 平安時代:後期 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 明治時代 |
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関連年号 | 788年 | 1095年 | 1571年・1586年 | 1597年 | 1868年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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大山咋神 | A301 | 大己貴神(大物主神) | A302 | 最澄 | **** |
織田信長 | OD04 | 豊臣秀吉 | ZZ01 | 徳川家康 | TG01 |
樹下茂国 | **** |
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▲山王鳥居
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▲西本宮楼門
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▲【Wikipediaより転載】西本宮拝殿
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▲西本宮本殿
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▲【Wikipediaより転載】宇佐宮拝殿
▲宇佐宮本殿
▲【Wikipediaより転載】白山姫神社拝殿
▲白山姫神社本殿
▲猿岩
▲東本宮へ
▲東本宮楼門
▲東本宮楼門
▲【Wikipediaより転載】樹下神社拝殿
▲樹下神社本殿
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