清和源氏

G606:水野貞守  源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野忠分 G611:水野忠分

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水野忠分 水野分長

 天文年間(1532~55年)、布土城主であったと伝えられるが、その経緯は明らかではない。
 織田信長配下として天文23年(1554年)の村木砦の戦いや永禄元年(1558年)の石ヶ瀬の戦いといった今川勢との戦闘に参加。しかしその後の動向は信長に従ったという以外、不明である。ただ、佐久間信盛の居所であった山崎城下に屋敷を構えていたこと、水野信元殺害後は緒川城下にも屋敷を持っていたことが『家忠日記』の記述より推測されるという。
 天正6年12月(1579年1月)に、荒木村重の立てこもる摂津有岡城攻めにおいて戦死。享年42。墓所は愛知県東浦町の乾坤院

 はじめ叔父の水野忠重に属した。天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いで首級を挙げて武功を挙げた。小田原征伐にも忠重に属して従軍する。その後、水野氏を去って家康の命令で蒲生氏郷に属し、九戸政実の反乱で先陣を務め戦功を挙げた。慶長4年(1599年)に家康から呼び戻され大番頭に任じられ、翌年の関ヶ原の戦いに参陣する。慶長6年(1601年)に尾張緒川藩1万石を与えられた。慶長9年(1604年)に備後守に任ぜられる。
 慶長11年(1606年)に三河新城に移封され、設楽,宝飯郡内で1万石を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも従軍する。家康が亡くなると徳川秀忠に仕え、近江栗太郡内で2000石を加増された。元和6年(1620年)に徳川頼房に付けられて水戸藩に移る。この際に新城の領地は長男の水野元綱に譲り、分長は安房・上総国内で1万5000石を与えられた(近江の領地は収公されている)。1623年3月1日死去。享年62。墓所は愛知県新城市字裏野の永住寺。死後、安房,上総国内の領地は相続するものがなく収公された。

水野元知 水野重央
 兄の元倫が早世したため嫡男となり、将軍・徳川家綱に拝謁する。寛文4年(1664年)10月26日、父の隠居により跡を継いだ。ところが寛文7年(1667年)5月23日、発狂して妻を斬りつけるという事件を起こしたため、5月28日、幕命により不始末として改易され、身柄は信濃松本藩の水野忠職預かりとされてしまった。発狂の理由は、側室の八重との間での諍いであると言われているほかにも諸説あり、詳しくわかっていない。長男の元朝に2,000俵(のちに2,000石)が給され、子孫は旗本として存続した。延宝8年(1680年)9月8日に死去した。享年37。              

 紀伊新宮藩の初代当主(幕藩体制下で新宮藩は藩主として認められなかった)。ただし常陸国内に1万石、遠州浜松藩にも所領を領していたときなどは、藩主として認められているとも言われている。
 重央は徳川家康の母方の従弟に当たるという縁故から、早くから家康に仕えて重用された。慶長13年(1608年)には家康の子・徳川頼宣の後見人としてその補佐に当たり、常陸国内に1万石を与えられた。慶長14年(1609年)、頼宣が駿河,遠州に移されると、重央も遠州浜松に移ることとなって2万5000石を与えられた。元和3年(1617年)には3万5000石に加増されている。
 元和5年(1619年)、頼宣が紀伊紀州藩に移ると、重央は新宮に3万5000石を与えられ、安藤直次と共に頼宣の附家老としてその補佐に務めた。だが、附家老という身分上、大名としての資格を失うことになった。元和7年(1621年)11月12日に死去し、後を長男の重良が継いだ。享年52。墓所は和歌山市直川の全正寺。

水野重良 水野忠央

 慶長12年(1607年)に初めて大御所・徳川家康に拝謁し、家康の命により第2代将軍・徳川秀忠に近侍する。
慶長20年(1615年)1月27日、従五位下・淡路守に叙任。同年5月の大坂夏の陣では小姓組に列して従軍し、5月7日の大坂城落城に際しては桜門で敵一人を討ち取っている。家臣・渡辺久太夫も首級を得ており、本陣で首実検に備えたところ、賞誉の言葉を賜ったという。戦後、近江国内に知行所2,000石を賜り、元和9年(1623年)には家光付きの旗本となった。
 元和7年(1621年)11月に父が死去したとき、本来ならばすぐに父の跡を継ぐはずであったが、他の水野氏が諸侯として正式に藩主として認められているのに対し、新宮水野家は紀州藩附家老(陪臣)のため藩主とは認められていなかったことに不満を抱き、弟の定勝に家督を継がせようとした。また、幕府に直臣として認めてもらうように運動したという。しかしこれは認められず、元和9年(1623年)6月の家光の上洛に随行していたところ、山城国竹田で秀忠と家光によって説得され、元和9年(1623年)6月に約2年の空位の後に家督を継ぎ、近江国内の知行所を返還した。なお、この際に和州包友の小脇差と伏見にあった豊臣秀長の旧邸を拝領しており、この旧邸は和歌山に移築されたという。   
 万治元年(1658年)9月25日に長男の重上に家督を譲って隠居し、真休を号する。寛文8年(1668年)10月28日に死去した。享年73。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。

 天保6年(1835年)、家督を継いで当主となり、紀州藩主たちを補佐した。
 嘉永2年(1849年)、徳川斉彊が死去してわずか4歳の幼児・徳川慶福が藩主になると、忠央はこれを補佐することとなった。この頃、紀伊藩では第10代藩主だった徳川治寶が隠居中ながらまだ存命していたため、実権は治寶が掌握していたのだが、治寶が嘉永5年(1852年)に死去すると、忠央は藩の主導権を掌握して専制的な政治を行なったため、周囲からの批判を浴びたと言われている。これは、新宮藩を大名に昇格させようという野望があったためと言われている。
 第13代将軍・徳川家定は病弱な上、嗣子が無かったため、次の将軍位をめぐって徳川斉昭の子・徳川慶喜の一橋派と、慶福を擁立する南紀派に分かれて、それぞれが対立することとなった。忠央は井伊直弼と手を結んで慶福を推し、安政4年(1857年)に幕府で隠然たる勢力を持っていた阿部正弘が死去すると、大奥とも手を結んで正弘の死の翌年、慶福を徳川家茂として第14代将軍に擁立したのである。
 しかし安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、一橋派や反井伊派が勢力を盛り返したため、直弼の与党であった忠央も同年6月に失脚した上、家督を嫡男の忠幹に譲って強制的に隠居することを命じられた。そして以後は政界に二度と復帰することなく、慶応元年(1865年)2月25日に死去した。享年52。墓所は和歌山県新宮市の橋本山にある水野家墓所。
 忠央は文化人として優れ、歴史・文学・医学の多方面において当時のことにおいて編纂を命じ、「丹鶴文庫」という蔵書を作り上げている。なお、新宮藩が大名に取り立てられるのは、彼の後を継いだ忠幹の時代における「維新立藩」でのことであった。

水野忠幹 水野忠宜

 紀伊新宮藩の第10代当主(紀伊藩附家老、大名としては初代藩主)。
 万延元年(1860年)6月、父の忠央は強制隠居処分となったため、その後を継いで紀伊藩藩主・徳川茂承を補佐した。策謀家で専制的であった父と違って謹厳実直だった上、度量も広かったので、周囲から人望を集めたと言われている。
 慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍の先鋒を務めて、各地で幕府軍が敗れる中で忠幹が率いる軍勢だけは安芸国佐伯郡大野村まで進撃するという大戦果を挙げた。幕府軍が撤退する中では殿軍を務め、長州藩の軍勢もその忠幹の武勇を恐れて追撃できず、「鬼水野」と畏怖し、あるいは賞賛したと言われている。
 慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると紀伊藩は御三家の一つであったことから幕府側につくとして新政府側から疑われた。このため忠幹は自ら上洛して必死に弁護し、紀伊藩の存続を実現したのである。同年、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万5000石の大名として認められ、新宮藩を立藩している。
 明治35年(1902年)、65歳で死去した。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。

 陸軍士官学校を1898年(明治31年)11月25日に卒業。青森県弘前市の第8師団に赴任し、1899年(明治32年)6月27日、陸軍歩兵少尉に任官。1901年(明治34年)に仙台地方で行われた陸軍大演習に際し、陸軍歩兵中尉に進級する。1902年(明治35年)、歩兵第5連隊第2大隊第8中隊第4小隊長として八甲田山雪中行軍に参加する。出発前に病床の父に手紙で報告したところ、父は大いに称賛して防寒着を送ってきた。忠宜はこの防寒着を身に纏って1月23日に出発したが、翌1月24日に遭難(八甲田雪中行軍遭難事件)。八甲田山にしばしば狩猟に訪れて周辺の地理に詳しかったこともあり、遭難後は率先して地理を探っていたが、駒込川の沢を脱出する際に卒倒凍死した。遺体は1月31日に鳴沢で発見された。神奈川県鎌倉市の高松寺に埋葬された。なお、和歌山県新宮市の水野家墓所には墓碑がある。兄弟の多くは他家に養子に出されていたため、父が死去すると末弟の重吉が家督を継いだ。
 趣味は狩猟と写真撮影。冬になると八甲田山のウサギや青森湾のカモを狩りに行ったという。八甲田山雪中行軍では愛用のカメラを持参しており、従卒の小野寺庄右衛門一等卒の遺体近くで発見されている。