G606:水野貞守 | 源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野忠元 | G610:水野忠元 | ● |
リンク |
水野忠元 | 水野忠之 |
---|---|
2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政に携わる。慶長10年(1605年)叙任し、小姓組番頭に就任。同時期の小姓組番頭は他に5名おり、それぞれ、井上正就,板倉重宗,日下部正冬,大久保教隆,成瀬正武。 |
延宝2年(1674年)、親族の旗本水野忠近の養子となって家督を継いだ。元禄10年(1697年)2月には御使番に列し、布衣の着用を許された。元禄11年(1698年)4月19日には日光目付、さらに9月25日には日光普請奉行となった。 |
水野忠辰 |
水野忠邦 |
水野氏は幕府の要職に付くことが多く、藩の財政は逼迫していた。そのため、藩主となった忠辰は、藩の財政再建に取り組んだ。倹約を徹底し、自らも衣服は木綿、食費は一日百文以内とした。こうした努力の結果、藩は豊かになり、俸禄の前借を許可したり、藩士の借金を藩が肩代わりするまでになった。自信を持った忠辰は、続いて藩政の改革に取り組んだ。家格にかかわらず、能力のある者を昇進させ、要職に就けたほか、年貢を減免し、農民にも慕われた。しかし、保守派家老の妨害に遭い、改革が挫折すると、忠辰はやけになり、遊興に耽るようになった。あまりの豹変振りに心を痛めた生母・順性院は、度重なる諫言の末、ついに諫死してしまう。さらに自暴自棄となった忠辰は、遊女を身請けするなどし、ついに乱心として宝暦2年(1752年)3月22日、家督を養子・忠任に譲ることを余儀なくされた上で幽閉されてしまう。 |
長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、文化4年(1807年)に第11代将軍徳川家斉と世子・徳川家慶に謁見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。 |
水野忠精 |
|
名は忠精のほか、忠良,忠経。父・忠邦が天保の改革に失敗して隠居したため、家督を継いだ。弘化2年(1845年)、遠江国浜松藩から出羽山形に移封されるが、これは父の失脚に伴う左遷である。 |