松平清康に仕え、その死後は広忠に近侍した。天文11年12月(1543年1月)徳川家康誕生の際には「蟇目の役」を務めたとされる。同18年の天野孫七郎宛知行書、24年の大工跡職安堵状、弘治3年(1557年)の浄妙寺宛て道場安堵書などから、この間松平家の重臣として、西三河における政務を取仕切る立場にあったと考えられている。また「岡崎領主古記」によると、清兼(忠成)は天文年間中の「五奉行」のひとりであったという。 また、天文18年、三河本證寺の住職の後継として「あい松」なる人物を支持する旨の、門徒連判状の筆頭にその署名があり、一向宗門徒の総代的立場にあったことがわかる。また清兼を含めて、連署された115名の内33名が「石川」(もしくは「石河」)姓であることから、彼が西三河における石川氏の惣領として存在していたと考えられる。 現存する弘治3年(1557年)の安堵書が、清兼の存在を確認できる最後のもので、これ以降の彼の消息は不明である。三男家成の生年(天文3・1534年)から考えると、仮に生存していたとすれば、三河一向一揆(永禄5・1562年)の際にはすでに家督を譲っていたと考えられる。
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徳川家康が今川義元の人質であった頃から仕えた譜代の家臣である。永禄元年(1558年)、寺部攻めで先鋒を務めた。 永禄3年(1560年)の丸根城攻略戦、永禄4年(1561年)の鳥羽根城攻略戦、永禄6年(1563年)の三河一向一揆鎮圧戦、元亀元年(1570年)の姉川の戦いのいずれにも参戦し、西三河の旗頭として家康初期の覇業に貢献した。 永禄12年(1569年)、今川氏真が没落したため、遠州掛川城主に任命されている。同年、甥の数正に西三河の旗頭の地位を譲っている。 天正8年(1580年)、子の石川康通に家督を譲って隠居した。天正18年(1590年)、後北条氏滅亡後に家康が関東に移封されると、伊豆梅縄に5000石の隠居料を与えられた。 慶長12年(1607年)、大垣藩の初代藩主であった子の石川康通が死去したため、家督に復帰して第2代藩主となる。慶長14年(1609年)10月19日(29日とも)に死去。享年76。後を養子の石川忠総が継いだ。
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天正元年(1573年)、武田勝頼率いる武田軍と戦って武名を挙げた。天正8年(1580年)、父・家成が隠居したため、家督を継ぐ。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されたとき、それまでの戦功を賞されて上総国成戸に2万石の所領を与えられた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、松平家清と協力して尾張国清洲城の守備、石田三成の近江国佐和山城攻めに参加し、戦後に戦功を賞されて美濃国大垣藩5万石に加増移封された。しかし慶長12年(1607年)、父に先立って病死した。享年54であった。
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徳川家康が松平竹千代の幼名を名乗っていた今川義元の人質時代から家康の近侍として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれて松平氏が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時、今川氏の人質であった松平信康を取り戻した。 永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で戦ったときには、先鋒を務めて活躍した。 永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献した。永禄6年(1563年)、三河で一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。このため戦後、家康から家老に任じられ、酒井忠次と並んで重用されるようになった。家康の長男・松平信康が元服すると、その後見人となった。永禄12年(1569年)には家康の命令で、叔父の石川家成に代わって西三河の旗頭となった。 また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。 天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加するが、このとき家康に秀吉との和睦を提言したともされる。 天正13年(1585年)11月13日、突如として家康のもとから出奔し、秀吉のもとへ逃亡した。これには諸説があり、今でも謎が多い。このため徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改めることになったとされる。 その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に移ると、秀吉より信濃松本10万石に加増移封された。 文禄2年(1593年)に死去。享年61。しかし没年には異説もあり、文禄元年(1592年)に死去の説もある。 家督は長男の石川康長が継いだが、遺領10万石のうち、康長は8万石、康勝は1万5000石、康次は5000石をそれぞれ分割相続することとなった。
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