清和源氏

G201:源 頼信  源 経基 ― 源 頼信 ― 石川義時 G392:石川義時

リンク G393
石川義時 石川義基

 義時は、父の義家以来の河内源氏本拠地の石川荘を相続した。また、治承の源平の戦いの際は、都に近い河内国に八幡太郎義家以来の源氏の残存勢力のあることを危険視した平清盛によって攻撃を受けた。派遣された平家方の侍大将大夫判官源季貞,摂津判官平盛澄の軍と源義基,源義兼らは洛外や石川源氏の本拠地である河内国石川庄で抗戦するが、大勢を覆すことはできず、一族の多くが討たれ石川源氏の勢力は大きく衰退する。
 この戦いの際に注目されるのは、平家方の大将が同じ源義家の子孫で、源義兼から見ると又従兄の子にあたると思われる源季貞であることである。源季貞は父の代からの平家郎党であるということで平家方であったために、同族を討伐する大将になったともいえるが、一説には、源義時が源季貞の曽祖父にあたる源義忠の暗殺事件に荷担もしくは関係があったため(根拠:源義忠の暗殺後、弟の源義時は河内源氏の棟梁の地位を望んだ)といわれる。

 下総権守,武蔵権守を歴任。河内源氏の祖の源頼信以来の河内国石川荘に拠って石川を苗字とした。
 治承4年(1180年)冬、以仁王の令旨を受けて全国の源氏勢が蜂起する中、河内源氏のかつて本拠地の河内石川の源氏の存在を危険視した平清盛は、策略を用いて義基ら石川源氏の主力を鳥羽まで誘い出し、一気に包囲して殲滅させた。この際、老齢の義基も先頭に立って戦ったが、武運つたなく討ち死にした。義基の子の源義兼は、石川源氏の棟梁として源平合戦を戦う。後世、その子孫は石川氏として存続する。

石川義兼 石川義忠

 治承4年(1180年)冬、平清盛の攻撃により義基ら石川源氏の主力が鳥羽で壊滅した際、義兼は本拠地の石川城にあった。清盛は源義家以来の河内の石川源氏に止めを刺すべく、源大夫判官季貞,摂津判官盛澄らを派遣して石川城を攻撃する。義兼は河内石川源氏の棟梁として、叔父の紺戸義広・二条義資らを率いて決死の防戦に努め、平家方を散々にてこずらせた。しかし、やがて力尽きて落城。義兼は覚悟を決めて自刃しようとしたところを、敵方の将兵に幾重にも折り重なれて生け捕りにされた。
その後しばらく捕虜としての生活を余儀なくされるが、木曽義仲の入洛と平家の都落ちという混乱に乗じて脱出に成功。河内に戻り石川源氏を再武装し、源頼朝の傘下に入り、河内源氏後裔の頼朝から「河内随一の源氏」と評される。

 義忠は笠木山敗残後北条氏、後に足利氏に追われ、その子・時通と共に下野小山氏を頼り、関東に身を隠した。
石川政康 石川忠輔

 政康は鎌倉公方足利持氏の配下にいたが、永享11年(1439年)の永享の乱で流浪者となっていた時に関東に下り布教活動を行っていた本願寺蓮如に下野で会い、『三河は我が郷党なり。武士の大将をして一方を指揮すべき者なし。願わくば、三河国に来たりて、我が門徒を進退すべし』との蓮如の誘いに応じ、三河に赴き文安3年(1446年)三河国碧海郡志貴荘村に移住し小川城を築いたとされる。なお、政康は三河移住と共に姓を石川に戻した。
 小川築城後、寛政2年(1461年)には佐々木上宮寺が本願寺派となり、また野寺本證寺,針崎勝鬘寺も浄土真宗高田派から本願寺派門徒の重要拠点へと宗旨替えを行った(三河触頭三ヶ寺)。政康は額田郡土呂に一族の寺として本宗寺を建てたが、応仁2年(1468年)三河へ下向した蓮如に本宗寺を寄進した。
 同じく政康の出家した子息康頼(僧明了)は小川城の隣に石川山蓮泉寺を建てた。政康は三河国における門徒武士の総代として、宗派勢力拡大と拠点建設に深く関わった。後の三河一向一揆において、本宗寺及び三河触頭三ヶ寺は門徒拠点として激しく家康に抵抗した。
 安祥城の松平親忠は政康に対し『政康の男子一人を召されて家老となされる』旨の申し出を行ったとされ、政康の命で三男石川親康が親忠に臣従したとされる。文亀2年7月18日(1502年8月20日)政康は死去した。
 なお、三河石川氏については政康の下野からの移住前から三河国守護であった一色氏被官として土着していたとの説もある。石川政康の子親康の墓は在家城に隣接する石川山養楽寺にあり、在家城は石川大隅守など一族の城とされ、木戸村古城は石川式部が城主として伝えられるなど、小川周辺には石川家に係る史跡が多く残る。

 松平親忠,長親,信忠,清康に仕え、後に岡崎五人衆(忠輔,天野貞有,植村新六,内藤義清,林藤助)の一人に数えられる。
 親忠,長親の御前で元服し、親忠より偏諱を賜り忠輔と名乗った。「石川家の本荘である小川の伯父康長と計って、野寺本證寺その他の地侍を安祥松平家の御麾下となした」とされ、忠輔は三河の本願寺門徒の武士を安祥松平家に仕えさせ、松平家発展の基礎を築いた功臣の一人である。
 主君の信忠は、暗愚,強情な人物であったため、民・百姓から家中・松平一門衆まで信忠に慕わず、城に出仕しない者まで多く現れたと伝えられる。忠輔は「主君信忠に城外に美人がいると告げ、その言葉に誘われて外に出た信忠を捕まえ大浜称名寺に監禁した」との逸話も伝えられる。信忠は、大永3年(1523年)一門等による協議内容を酒井忠尚に告げられ、その意を受け入れ隠居し、家督を嫡男清康へ譲渡したとされる。
 弘治3年6月28日(1557年7月24日)死去。

二条義資 紺戸義広
 鳥羽において、平家方の源季貞,平盛澄の軍勢の夜襲を受けて大敗。その乱戦の中で討ち死にした。  治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、それに呼応し先祖の河内源氏の本拠地の河内国石川郡で挙兵したが、平清盛が派遣した飯富季貞,平盛澄の軍に宇治で戦い大敗。捕らわれたとも討ち死にしたともいうが、詳細は不明。