<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

TB19:楠木正遠 〔敏達天皇後裔〕橘 諸兄 ― 橘 遠保 ― 楠木成綱 ― 楠木正遠 ― 楠木正儀 TB20:楠木正儀

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楠木正儀 則岡正則
 南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站,調略,後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。3代将軍・足利義満に仕え、幕府の枢要河内,和泉,摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都の天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立し没後の元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一へと結実させた。

 則岡氏の祖と伝わる。将軍足利義満の命により、管領畠山基国の元で育てられ、成長後、家名を則岡氏と号した。紀伊守護畠山基国と共に南紀在田郡宮原荘の岩室城に入城し、そこで政務を行ったとされ、子孫は畠山氏を経て、豊臣氏から御三家紀州徳川氏に仕える。
 本国河州橘姓則岡氏系図の由緒書には「南北大明神三男小次郎後次郎左衛門尉左馬頭正儀密子三男河内三郎正則」と記述されており、父正儀の生没年や同系図に記載されている子の則綱や孫の久明に関する記述を勘案すると、正則は正儀の晩年の子若しくは正儀死後の男子の可能性がある。

則岡久宗 楠木正元
 畠山政尚,畠山貞政に仕えるが、豊臣氏により岩室城は落城。その後、大和大納言・豊臣秀長に仕えるが、秀長が程なく死亡したので故郷の宮原荘に戻り浪人生活を過ごす。大坂の陣では、豊臣方の重臣・片桐且元より参陣を要請されるが辞退した。 その後、豊臣氏が滅び、久宗は徳川御三家初代紀州藩主・徳川頼宣より六十人地士に任じられるが、病により勤めを辞退する。代わりに分家していた弟の則岡信久がそれを引き受け、以後六十人地士 は信久家の筋が勤めることとなる。

 元中9年/明徳3年(1392年)春、畠山基国が率いる室町幕府軍によって本拠千早城が落とされる。同年、残党と共に斬首される。
『桜雲記』下巻によれば、千早城陥落から南北朝合一(明徳の和約)の間までの話として、正元は密計して京に入り、将軍足利義満を暗殺しようとしたが、実行の前に事が露見して処刑された。時の人々は、正成,正行の忠志に違わない人だと正元を称賛したという。
 大正4年(1915年)11月大嘗会において、従四位を追贈された。

楠木正秀 楠 正虎

 大饗氏の遠祖に位置付けられる存在だが、兄の正勝と混同されている事績を除くと、ほぼ系図上だけの存在であって行動も実在性も不明。
 洞院公定編『尊卑分脈』所収『橘氏系図』では楠木正儀の唯一の息子となっており、官職は右馬頭、子に大饗西法入道正盛がいたとされるが、右馬頭というのは兄の楠木正勝との混同と考えられる。なお、正勝の息子の名も正盛だが、後に正顕に改名している。
 江戸時代の『群書類従』所収『橘氏系図』では、正勝,正元,正秀,正平の四兄弟とされ、通称を二郎左衛門、官職は左馬頭とされる。また、子が大饗西法入道正盛で、その子孫に大饗正虎がいるが、こちらの系図だと大饗正虎と織田信長に仕えた楠木正虎は別人扱いとなっており、楠木正虎は弟の正平の子孫ということになっている。
 応永6年(1399年)の応永の乱に参戦した楠木氏の武将の名前を、『南方紀伝』は正秀とするが、藤田精一は正秀ではなく正勝であろうとし、徳川光圀『大日本史』、『全休庵楠系図』も正勝としている。
 曹洞宗の高僧に楠木正勝が死を偽った仮の姿という伝説のある傑堂能勝という人物がいるが、『慶字禅師行状』には傑堂能勝は楠木正成の孫で通称を次郎左衛門と言うとあるため、藤田精一は、傑堂能勝の正体は正勝ではなく、二郎左衛門の通称を持つ正秀(もしくは兄の正元、通称を二郎)なのではないか、という仮説を立てている。
 大阪府豊中市の浄土真宗本願寺派浄行寺は、楠木正秀によって創建されたと伝えられる。正秀は応永の乱で敗走した後、当地に逃れてきて杉原氏の庇護を受けたが、杉原氏の薦めで仏門に入って浄信を名乗って浄行寺を開基したという。また、「楠」木と杉「原」を合わせて、楠原に苗字を改めた。しかし、八代了慶の代の火災で古記録は失われてしまった。

 織田家,豊臣家の右筆(書記官)を担当した。正虎は、書を飯尾常房に学んだと言われる(は実際には飯尾常房の弟子筋の人物に学んだと推測される)。世尊寺流の当代一流の書家であった。
 織田信長が羽柴秀吉の妻である高台院に出した古文書があり、これは昭和初期まで信長の直筆とされてきたが、右筆の正虎が書いたものであることが明らかとなった。
 楠木正成の子孫と称し、朝廷に正成の朝敵の赦免を嘆願した。これには松永久秀の取り成しもあったとされる。永禄2年(1559年)11月20日には正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を公言できるようになった。天正3年(1575年)には式部卿法印に叙せられ、松井友閑らとともに佐久間信盛の監督官の立場に任じられる。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えでは坊主衆の一員としての参加が確認できる。
 出身である備前焼の有力窯元であった備前大饗氏とは親しい関係が続き、天正10年(1582年)3月に羽柴秀吉が備前に滞留した際は大饗邸に滞在した。
 文禄元年(1592年)からの朝鮮征伐に際しては、肥前国名護屋城において、石田三成の父である石田正継とともに記帳などにあたった。後に従四位上河内守に任じられた。
 息子に楠木正辰(通称を甚四郎)がいて、冷泉家の娘を妻としていた。楠木正虎父子は冷泉家・山科家と親しかった。また、宇喜多氏(のち徳川氏)の家臣・楢村玄正は正虎の子を称している。

津田正信 津田算長

 延徳2年(1490年)、河内国交野郡の津田に到来した正信は同地の国見山に津田城を築き、それまで津田を支配してきた中原氏に取って代わったといわれる。
 津田氏はこの後、三好長慶に従い、津田地域に加えて牧八郷や友呂岐六郷を安堵され、合わせて一万石を支配したとされる。天正3年(1575年)には織田信長に津田城を焼かれ、拠点を麓の本丸山城に移し、天正10年(1582年)の山崎の戦いでは明智光秀につき没落した。元和元年(1615年)の大坂の陣では豊臣方についたため山城国八幡に幽居することとなり、それ以後、津田氏は津田に戻らなかったとされる。
 正信は、紀伊の津田監物一族の祖ともいわれるが、正信を含む津田城主の津田氏は同時代史料では姿が見えず、後世の由緒書からその経歴が築かれた。しかし、これらの由緒書は17世紀末以降の津田山をめぐる山論において、自陣営を有利にするために作られたものであり、津田城の由緒や津田城主の津田氏は後世の創作であると指摘されている。

 紀州那賀郡小倉荘領主。鉄炮を本土に持ち込んだ人物。監物とは十二代将軍義晴に鉄炮を献上し小監物に任ぜられたからという。実戦に使用できる鉄炮の存在を知り種子島へ渡ったというが、一説に密貿易の途中難破し種子島に漂着、種子島時堯の娘を娶り鉄炮術を修得。天文13年(1544年)3月15日、鉄炮と砲術を紀州に持ち帰る。根来坂本村に住んで、鍛冶芝辻清右衛門妙西に鉄炮製作を命じ翌年には紀州第一号の鉄炮が誕生した。津田流砲術を創始。1568年12月22日、69歳で没す。
杉ノ坊妙算

 兄に命じられて、火縄銃による武装化を手がけた。これが紀州鉄砲集団・根来衆の始まりとされる。
 また、杉ノ坊明算の素性に関して、畠山氏の重臣・遊佐長教の弟である「根来の松坊(杉坊か)」をそれとする説が出ている。これによると、泉南から紀北をおさえる根来寺の杉ノ坊に弟を送り込むことで遊佐長教は南近畿の支配を強化したことになるが、長教は天文20年(1551年)に暗殺され、長教の弟も長教の後継者を巡る争いの中、翌天文21年(1552年)2月11日に殺害されている。このため、この説に従えば杉ノ坊明算(津田妙算)の没年もその時ということになる。