系譜は明らかでないが伊予橘氏の一族と想定され、橘清樹または橘貞保の子とする系図がある。他に敏達天皇裔の橘氏に繋げ、橘奈良麻呂の子・安麻呂の後裔である成行の子、あるいは橘広相の孫・保輔の子とする系図がある。 天慶3年(940年)正月に平将門の乱に際して防戦した功に対する恩賞として、遠江掾に任ぜられる。翌天慶4年(941年)には伊予国警固使として藤原純友の追討に当たり、博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた純友とその子息・重太丸を捕らえ、同年7月7日に純友・重太丸の首を朝廷へ進上した。純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられている。 その後、美濃介に転任したが、天慶7年(944年)2月6日自宅への帰途で何者かに斬殺されたという。 後世、その武功から遠保の子孫を称する武将が多い。いわゆる「源平藤橘」として橘氏を四大姓の一つに数えるのは遠保の子孫が栄えたためともされる。