<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

TB12:橘 仲遠 〔敏達天皇後裔〕橘 諸兄 ― 橘 島田麻呂 ― 橘 長谷麻呂 ― 橘 仲遠 ― 田中重信 TB15:田中重信

リンク
田中吉政 田中吉次

 近江国高島郡田中村より出身。はじめ宮部継潤、ついで豊臣秀次に仕え五千石。1588年、叙位,任官し近江国で三万石。1591年、三河国で五万七千四百石を領し、1594年、三河国に隠居分四万石を加え、また豊臣氏直料三万石の代官となった。
 1596年さらに加増され、息子の吉次(長顕)の分と合わせて十万石となった。関ヶ原の役では東軍に属し佐和山城攻撃に参加し、9月23日石田三成を逮捕した。戦後、その功により筑後国柳川城主で三十二万石与えられた。領内の産業振興に努め、自らキリスト教に帰依し、領内キリスト教徒を保護した。1609年2月18日没す。

 父・吉政同様、豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いに従軍した。のち父・吉政が近江八幡城主となった秀吉の甥・豊臣秀次の老臣筆頭に任ぜられると共にこれに仕え、一字を拝領して吉次と名乗る。奥州仕置においては本願寺の坊官・下間頼廉らと共に奥州一揆の中核をなす浄土真宗寺院と緊密に連絡を取り、奥州の争乱が畿内に波及しないよう努めた。父・吉政が岡崎城主の頃、西尾城を治めたという話もある。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方に参陣し、父・吉政は功績によって筑後国主となる。翌慶長6年(1601年)、家康より入国のための暇をもらうと、まず吉次が吉政の入国に先んじて柳川に向かった。3月18日付けの大久保忠隣からの吉次宛返書が残っている。芳次、博多の酒などを秀忠とその側近の忠隣に送ったらしく、それに対する礼状である。後に父と不和になり、柳川より逐電したため廃嫡された。
 元和3年(1617年)、京都にて病死した。家督は四弟・忠政が継いだ。

田中吉信 田中吉興

 慶長6年(1601年)、父・吉政が筑後国主となると、支城である久留米3万石の筑後久留米城主となった。慶長8年(1603年)、柳川から久留米に至る道路の整備をはじめ、城下町の形成も行った。
 慶長11年(1606年)1月20日、小姓を手討ちにしようとして、逆に斬られて死去した。家人を手打ちにするという嗜好があったとされ、吉信が返り討ちに遭う前にすでに53人が犠牲になっていたとされるが、『江戸10万日全記録』他の資料はなく歴史的には立証がない。『筑後志』によれば、家臣を手打ちにする際に誤って自分の膝を傷つけ、その傷が癒えないまま近侍の者と相撲をとったため、破傷風になって満19歳で死亡したという。死亡した年も年齢も異なっており、どちらが正確かははっきりしない。
 吉信の乳母が彼を弔うため、現在の柳川市にあった宋安寺に堂を立て、乳母が亡くなった後、この堂が妙経寺となる。田中家の改易後、旧領は柳河藩と久留米藩とに分かれたので、北野町の西方寺に移し墓を建てたとされる。

 長兄の吉次は父と不和のため廃嫡され、次兄の吉信も病死していたことから、長幼の順では吉興が後継者となるところであったが、病弱を理由として弟の忠政が継嗣とされ、第2代筑後国主となった。のちに忠政から3万石を分知され、現在の久留米市田主丸町村島に居館を構える。田主丸の町並みも、そのころに作られたと思われる。
 元和6年(1620年)に忠政が死去して無嗣断絶となったのち、近江国野洲郡,三河国田原,上野国新田などで合計2万石を与えられ、大名としての田中家の名跡を継いだ。
 吉興には男子がなかったため、元和8年(1622年)8月に徳川家譜代家臣の菅沼定盈の八男を娘婿に迎え、田中吉官と名乗らせて家督を譲った。

田中吉官 田中康政

 元和8年(1622年)8月、秀忠の命により嗣子が居なかった筑後柳河藩田中家支流の田中吉興の娘婿となり、定官から吉官と改名、家督を相続し近江国野洲郡,三河国田原,上野国新田など2万石を領する。翌月、小姓頭に昇進した。
 小姓頭在任中の元和9年9月18日(1623年11月10日)に、小姓組の同輩・三宅藤五郎が罪を犯して処罰されると、組頭として連帯責任を負い除封となった。
 2年後の寛永2年(1625年)に赦免されると、米2000俵を給され、御書院番として起用される。のちに大番頭へと累進を重ねた。この際に蔵米を改め、上総国周准郡,天羽郡,安房国朝夷郡の3郡において3000石を加増されて、都合5000石を知行することとなった。明暦4年(1658年)1月9日没、享年59。

 父・吉政が関ヶ原の戦いでの功績により筑後柳河藩に封じられると、慶長6年(1601年)9月に筑紫広門が築いた福島城の大規模な改修・拡張を行い、3万石を与えられた康政が城主として入った。慶長14年(1609年)2月に吉政が死去すると、口訥の病(吃音症)があり病身で虚弱であった康政に代わって、世嗣となっていた弟の忠政が家督を継いだ。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際して遅参した忠政について康政は、忠政が豊臣方に内通していた疑いがあると江戸幕府に訴え出た。急ぎ江戸に出府した忠政は藩邸で謹慎し、重臣・田中采女が幕府の要職者に弁明して事なきを得たが、幕府は訴え出た康政を咎めず、分知して別家を立てさせるという裁定を下した。元和3年(1617年)、忠政からの願い出という形で、生葉郡・竹野郡2郡および山本郡半郡で3万石を分知された。
 元和6年(1620年)に忠政が死去して田中家が改易されると、康政も所領を失った。近江国で1万石を賜ったが辞したとされ、これは弟を誣告したことを恥じたためという。その後、洛外に隠棲し間もなく死去した。

田中忠政 田中氏次

 早くから父の策略で江戸の徳川家康のもとへ人質として送られ、このとき、家康の計らいで従五位下・隼人正となる。また、慶長10年(1605年)には江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の上洛に随行した。
 慶長14年(1609年)4月3日、父の死により家督を継ぐ。これは、忠政が家康と親しかったことに加え、長兄の吉次が父の勘気を受けて追放され、次兄の吉信は亡くなっていて、三兄の吉興も病弱とし、家督を継いだのである。ちなみに同年、秀忠の計らいで従四位下・侍従となる。
 その後は江戸城西の丸の普請、柳河の開拓などで功を顕す。名古屋城の石垣建設にも携わった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、冬の陣において徳川方として参戦し、翌年の夏の陣でも徳川方として参戦しようとしたが、家臣団の一部で旧主の豊臣家に与するべきという反論が起こり、さらに財政難などもあって遅参した。このため、駿河にいる家康に謝罪し、罪は許されたが、代償として7年間の江戸滞留を命じられた。元和2年(1616年)、家康が死去すると領内の山本郡の善導寺に東照権現宮を勧請した。一方で、父と同じくキリスト教に大きな興味を示して信者を手厚く保護した。家臣の一人がキリシタンを殺害したのを知って激怒し、その家臣を即座に処刑したほどであった。
 元和6年(1620年)8月7日、36歳で死去した。嗣子がなく、柳河藩田中家は無嗣断絶となり改易された。幕府の禁教令の中でキリスト教を保護したのは稀有なことであり、その件が幕府の不興を買って改易に結びついたとの指摘もある。忠政の遺骸は神田吉祥寺に葬られたが、甲冑を著して埋葬されたという記述がある。また、供養塔が龍護山千光寺にある。また、位牌が浄土宗大本山善導寺に祀られている。
 なお、忠政の死後、三兄・吉興は近江に2万石を与えられ、田中家の名跡を継いだ。

 この系統は肥後細川藩士として続いていたが、吉政とは不和だったためか、柳川の田中本家断絶の折にも吉興に嗣子がない折にも養子を送ることはしていない。