若くして大学寮に入る。後に蔵人となり藤原忠平の侍読を務めた。天暦元年(947年)に豊前守に任ぜられて現地に赴任。後に摂津守となり、康保元年(964年)及び康保2年(965年)には『日本書紀』を講じている。その後、播磨守に転じたようであるが、没年は不明。位階は従四位上に至ったという。 また、『新勅撰和歌集』以下の勅撰和歌集に2首が入る勅撰歌人でもあった。
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一条,後一条二代の乳母。典侍を務め従三位に至り、「橘三位」と称された。 およそ天徳年間(957年~960年)の生まれか。天元3年(980年)前後に懐仁親王(のちの一条天皇)の乳母となる。長徳元年(995年)10月、大宰大弐に任じた有国と共に任地へ下向、その時の威勢は『栄花物語』に描かれている。長保3年(1001年)任果てた夫とともに帰京。寛弘2年(1005年)3月、第一皇女脩子内親王著裳に際して理髪役を奉仕。寛弘5年(1008年)9月、第二皇子敦成親王(のちの後一条天皇)誕生に際して乳付役を奉仕、七夜産養には中宮彰子から贈り物を受けた。寛弘8年(1011年)夫と死別。治安2年(1022年)7月、後一条天皇法成寺行幸に供奉したのを最後に、その後の消息は不明。
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