<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

TB02:橘 島田麻呂  橘 諸兄 ― 橘 島田麻呂 ― 橘 広相 TB03:橘 広相

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橘 広相 橘 公頼

 紀伝道を菅原是善に学び、貞観2年(860年)文章生に補せられ、貞観6年(864年)対策に及第する。文章生補任から僅か5年という短期間で対策に及第しており、その学才が窺われる。六位蔵人・右衛門大尉を経て、貞観9年(867年)従五位下に叙爵されると共に、31歳で文章博士に任ぜられる。
 貞観10年(868年)博覧から広相に改名する。これは博覧比丘の呼称が舎利弗の別称であったことから、仏菩薩や聖賢の号を名に使用することが適切でないとの格を憚った父・峯範の上奏によるものとされる。
 貞観11年(869年)貞明親王が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられる。このことから広相は摂政・藤原良房と密な関係にあったと考えられる。貞観12年(870年)民部少輔に任ぜられると、のち左右少弁を歴任するなど、清和朝後半は東宮学士の傍らで実務官僚も務め、この間の貞観15年(873年)従五位上に叙せられている。
 貞観19年(877年)貞明親王の即位(陽成天皇)に伴って、東宮学士の功労によって二階昇進して正五位上に叙せられ、式部大輔に任ぜられる。さらに同年中に従四位下・蔵人頭に叙任と急速に昇進を果たす。広相は蔵人頭として実務能力を発揮したとみられるが、元慶3年(879年)蔵人頭を2年半ほどで辞任する。
 元慶8年(884年)2月の光孝天皇即位後まもなく従四位上に叙せられる。また、同年4月の光孝天皇の読書始で太政大臣左右大臣も参加して『文選』の講読が行われた際に広相は侍読を務め、元慶3年(879年)以来ただ一人文章博士を務めていた菅原道真による欠員補充の要請を受けて、5月に広相が文章博士に再任された。文章博士の再任は事例が少ない。12月には参議に抜擢され、橘氏としては岑継以来約四半世紀振りの議政官への昇任を果たす。また、文章博士を務めたまま参議となったのは史上初めてのことであった。またこの頃、広相は娘の義子を尚侍・藤原淑子を通じて光孝天皇の皇子で臣籍降下した源定省(のち宇多天皇)と結婚させている。光孝朝では文章博士を務めると共に、議政官として左右大弁を兼帯するなど要職を歴任した。
 仁和3年(887年)宇多天皇の即位に際して藤原基経を関白に任じる詔勅を広相は起草するが、その文章中に「阿衡に任ず」との文字があったために、文章博士・藤原佐世らが阿衡は位は貴いが具体的な職掌がない官職との意味である旨の主張を行い、それにより基経が一切の政務を放棄してしまう。翌仁和4年(888年)基経不在に伴って長期化する政務の停滞に心痛した宇多天皇が改めて詔勅を出すことになった。基経はなおも広相の処罰を求めるが、讃岐守・菅原道真が基経宛に送った書簡により基経は矛を収め事件は終結した(阿衡事件)。なお、事件後に基経の娘・温子が入内していることから、この事件は広相の娘・義子の産んだ皇子が即位して橘氏が天皇の外戚となることを警戒した藤原氏の陰謀によるものともされる。
 寛平2年(890年)5月16日に卒去。最終官位は参議正四位上兼行左大弁。同日従三位・中納言が追贈された。

 宇多朝末の寛平8年(896年)蔵人に補任する。左衛門少尉・左衛門大尉を経て、昌泰2年(899年)従五位下に叙爵する。
 延喜2年(902年)周防権守に任ぜられると、延喜6年(906年)大宰少弐、延喜7年(907年)備前権守と醍醐朝の前期に地方官を歴任し、延喜12年(912年)正月に治国の功労により従五位上に叙せられる。同月権右少弁に任官すると、延喜16年(916年)正五位下、延喜18年(918年)左少弁、延喜19年(919年)従四位下と醍醐朝中盤は弁官を務めながら順調に昇進する。その後、延長3年(925年)従四位上に昇叙され、延長5年(927年)参議として公卿に列す。
 朱雀朝では、議政官を務める傍らで右兵衛督,左衛門督などを兼帯し、承平5年(935年)大宰権帥を兼ねて大宰府に下向する。承平6年(936年)従三位、天慶2年(939年)中納言に叙任されるが、引き続き権帥を務めて大宰府に留まる。
 天慶4年(941年)2月20日任地の大宰府で薨去。享年65。最終官位は中納言兼大宰権帥従三位。勅撰歌人として、『後撰和歌集』と『新勅撰和歌集』に和歌作品が1首ずつ入集している。
 天慶4年(941年)藤原純友の乱に際しては、大宰府を落として柳川に迫った藤原純乗(藤原純友の弟)の軍勢を蒲池城で迎え撃った。その功により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となったという。
 福岡県柳川市に伝わる伝承では、蒲池城は藤原純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗したとされる。そこから蒲池城に拠る蒲池の領主は藤原純乗の一族と伝えられているが、当時は柳川城はまだなく、橘公頼が子・敏通と共に藤原純乗を迎え撃ったのは蒲池城である。また近隣一帯は、田尻氏など純友追討に功のあった大蔵春実の子孫が土着しており、藤原純友一族の子孫が勢力を持ったとは見なしがたい。蒲池の領主もまた藤原純友追討に功のあった橘公頼の子孫であり、鎌倉時代に嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)が蒲池の地頭職になって赴任し、橘公頼の子孫の筑後橘氏の娘婿となり、その勢力を背景にして蒲池氏を名乗る。

橘 正玄
 盛仲死後、楠木正俊の養育を受ける。後に張雲斎と号し、張子房所伝の江家兵法を楠木正成幼少の頃教育を行う。