中国(後漢王朝)渡来系

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田村宗良 田村建顕

 寛永14年(1637年)4月19日、陸奥仙台藩の第2代藩主・伊達忠宗の3男として誕生した。寛永16年(1639年)、父の命で1,500石の仙台藩の重臣・鈴木元信の家系である鈴木家の名跡を継ぎ、志田郡大崎を治めた。慶安2年(1649年)に元服して鈴木宗良と名乗る。
 承応元年12月18日(1653年1月17日)、忠宗の生母である田村家出身の陽徳院(祖父・政宗の正室、愛姫)の遺言により田村家を再興し、栗原郡岩ヶ崎に1万石を与えられる。
 万治3年(1660年)に仙台藩主に幼少の伊達綱村が就くと、綱村より2万石加増され、同年12月に従五位下、右京亮に叙任された。また、伊達宗勝と共に綱村の後見となった。寛文2年(1662年)、名取郡岩沼に転封され、内分分知大名として岩沼藩の初代藩主となった。和歌や書をなし、人柄は温和であり人望を集めたが、気弱な一面もあったため才気活発な宗勝による専横を許すことになった。寛文10年(1670年)に隠岐守に叙任される。
 寛文11年(1671年)、伊達騒動(寛文事件)に際して指導的役割を果たすことができず、江戸幕府の命令によって連座処分により閉門に処された。寛文12年(1672年)に罪を許された。
 延宝6年(1678年)3月26日に江戸で死去。享年42。

 万治3年(1660年)、父・宗良が陸奥岩沼藩3万石の大名に取り立てられると、世子となる。寛文4年(1664年)2月21日、元服して宗永と名乗り、同年11月28日、4代将軍・徳川家綱に御目見する。
 寛文10年(1670年)に従五位下・右京大夫に叙任され、延宝6年(1678年)に父の死去により家督を相続する。延宝9年(1681年)5月、岩沼から一関に移封された。宗永は学問に秀でていたため、5代将軍・徳川綱吉に重用され、元禄4年(1691年)には奥詰衆に取り立てられて譜代格となり、元禄5年(1692年)には奏者番を拝命する。同年大晦日、建顕に改名する。元禄6年(1693年)には城主格となり、元禄7年(1694年)8月21日には弟・顕寛が分家し旗本寄合席に列した。
 元禄8年(1695年)に宮床伊達家当主の伊達村房(後の伊達吉村)を養子に迎えようとしたが、養子縁組を幕府に届け出る前に仙台藩主・伊達綱村の養子に変更されたため、翌年に奥医師の田村安栖家(丹波田村氏)の分家にあたる旗本・田村顕当の5男である誠顕を養子に迎えた。宝永2年(1705年)、因幡守に任官した。宝永5年(1708年)1月27日死去。享年53。誠顕が家督を相続した。
 元禄14年(1701年)3月14日、播磨国赤穂藩主・浅野長矩が刃傷沙汰を起こし、即日切腹を命じられた。この時、一関藩田村家が事件後の長矩の身柄を預かるよう命じられ、夕刻に芝の一関藩邸に長矩が護送されて来たが、それから一刻と経たないうちに大目付・庄田安利の指示があり、藩邸の庭で浅野長矩の切腹が執行された。対応が悪かった記録が残っており、長矩は着用していた大紋を脱がされ、収容された座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。また庭先で筵の上で切腹させる、介錯に使おうと田村家伝来の由緒ある刀を家臣が持ち出してきたので建顕が激怒した、切腹した場所には今後誰も近づかないよう藩士に厳命した、長矩の遺言を隠したともいわれる。藩邸には墓や供養塔の類は一切なかった。
 浅野長矩が切腹の折に通ったと伝わる田村屋敷の江戸屋敷脇門は、釘を使わず組み合わせ式で建てられた江戸初期の武家門である。その後、三井八郎右衛門が、ゆかりの人々の冥福を祈って杉並区方南の念仏山東運寺に寄進移築し、今も東運寺の山門として残されている。

田村村隆 田村村資

 元文2年(1737年)5月23日、陸奥仙台藩の第5代藩主・伊達吉村の5男として青葉城にて誕生した。幼名は幸五郎。寛保2年(1742年)に一門登米伊達家当主・伊達村倫の養子となって伊達村候と名乗り、のち村勝に改名する。
 宝暦2年(1752年)5月に陸奥一関藩主・田村村顕の養子に迎えられ、田村村隆に改名、登米伊達家の家督を同母弟の村良に譲る。宝暦5年(1755年)9月24日、村顕の死去に伴い家督を相続し、宝暦6年(1756年)、甥の重村が仙台藩主となると後見人を務める。宝暦13年(1756年)、仙台藩によって蟄居させられていた儒学者の芦東山を赦免するように重村に助言し実現させた。東山は村隆に一関での学校創設を要望して村隆もこれに賛成し、村隆の没後の天明3年(1783年)の一関学館創設に繋がった。しかし冷害や旱魃が毎年のように相次ぎ、それによって藩財政が破綻寸前に追い込まれ、一関藩士による宗家・仙台藩への直訴事件が3度発生した。
 天明2年(1782年)2月6日死去。享年46。養子の村資(村良の長男)が家督を相続した。

 宝暦13年(1763年)1月3日、仙台藩一門第五席・登米伊達家9代当主・伊達村良の長男として仙台にて誕生した。幼名は保之助。
 安永7年(1778年)、跡取りのいなかった伯父で一関藩主・田村村隆の養嗣子に迎えられることになり、4月21日に元服して仙台藩主・伊達重村から偏諱を拝領して村資と名乗り、重村の猶子となって7月24日に一関藩へ入嗣する。
 天明2年(1782年)3月29日、村隆の死去に伴い家督を相続する。翌天明3年(1783年)に一関に入部すると、関元龍らの願いを容れて、藩校・一関学館(のちの教成館)を創設する。寛政8年(1796年)、仙台藩主・伊達斉村が急死し、子の政千代(周宗)が跡を継ぐと、重村正室の観心院や土井利謙らと協議し、堀田正敦を後見人に立てる。
 治世中は洪水多発や幕府勤役による負担増に悩まされ、寛政9年(1797年)に仙台藩内で発生した大規模な一揆(寛政の大一揆)が一関藩領にも波及すると、一関城下への進入を阻止するために一揆勢の要求を大幅に受け入れた。
 寛政10年(1798年)に家督を婿養子の宗顕に譲って隠居する。文化5年(1808年)10月27日死去。享年46。実子は一関藩主とならなかったが、伊達斉義は仙台藩主、顕彰は田安徳川家家老となっている。

田村宗顕 田村顕普

 天明4年(1784年)5月2日、陸奥仙台藩重臣・中村村由の次男として誕生した。幼名は紀三郎。父・村由は第6代藩主・伊達宗村の8男で、天明6年(1786年)に近江国堅田藩主・堀田正富の養子として迎えられ、堀田正敦となる。その際、紀三郎は仙台藩に残されている。
 寛政5年12月16日(1793年)、父の従弟で既に男子2人を亡くしていた陸奥一関藩主・田村村資の養嗣子に迎えられ、田村敬顕と名乗る。寛政10年(1798年)4月27日、村資の隠居に伴い家督を相続し、文化3年(1802年)、村資の娘・おかねと婚儀を挙げる。文化9年(1808年)7月11日、宗顕に改名。
 宗顕の代には連年の凶作で藩財政が極度に悪化し、幕命による蝦夷地警備も財政悪化により行えなかったほどであった。
 文政10年(1827年)11月8日、一関にて死去。享年44。養父・村資は隠居後に男子(田村顕彰)を儲けていたが、家督は宗顕の子の邦顕が継いだ。

 父の宗良が岩沼藩主になってから生まれた子で、父は延宝6年3月26日(1678年5月16日)に死去する。その後、仙台藩士で宮城郡蒲生を領する蒲生和田家の和田房長の跡を継いで和田定長と称した。
 後に、実家の田村家に戻されて、元禄14年3月4日(1701年4月11日)に徳川綱吉へ初御目見を済ませる。ちなみにこの10日後に浅野長矩が殿中刃傷を起こして兄の建顕の屋敷にお預け、即日切腹となっている。同年7月5日(1701年)に三兄の顕始が隠居したのを受けて、旗本田村家の家督を継ぎ、寄合席に列する。
 『寛政重修諸家譜』では正室の記述がないが、元禄16年(1703年)に神尾氏との間に長男の泰顕を儲けている。享保元年(1716年)に泰顕を本家の一関藩主・田村誠顕の養子に出し、享保8年(1723年)に次男の村房が生まれている。享保10年1月11日(1725年2月23日)に御先手鉄砲頭に就任する。また同年8月2日(1725年9月8日)に一関藩主家の養子に行っていた泰顕が死去する。本家の一関藩では泰顕に代わって宇和島藩から田村村顕が養子として迎えられる。同年12月18日(1726年1月20日)に布衣を着することを許可される。享保13年(1728年)に徳川吉宗の日光山参詣に扈従する。
 享年70で死去。田村宗良の男子の中では最長寿であった。法名は崇信。墓所は芝の東禅寺。跡は次男の村房が継いだ。

田村村房 田村顕彰

 兄の泰顕は村房が生まれる前の享保元年(1716年)に本家の一関藩第2代藩主・田村誠顕の婿養子となり、その8年後に顕普の次男として村房が誕生する。享保10年8月2日(1725年9月8日)に兄の泰顕が亡くなると、本家の誠顕は宇和島藩伊達宗贇の次男である田村村顕を養子に迎えたため、村房が本家の養子になることはなかった。享保18年(1733年)に父が死去するとその家督を継ぎ、旗本寄合席に列して徳川吉宗に初御目見を済ます。
 延享2年(1745年)から宝暦7年(1757年)まで小姓組番士を勤め、その後小普請となる。一方で、宝暦2年(1752年)に本家の村顕は仙台藩から伊達吉村の5男の田村村隆を養子として迎えて宝暦5年8月3日(1755年9月8日)に死去している。
 伊達綱村の治世初期に幕府より国目付として派遣された設楽貞政の養曾孫にあたる、設楽貞根の娘を正室に迎えるが子がなく、村房の死で田村宗良の男系血統は絶える。一方で、多羅尾光豊(四郎右衛門)の子である顕詩が養子となって跡を継ぎ、旗本田村家は存続する。享年55。墓所は芝の東禅寺。

 一関藩主は田村宗顕が相続していたこともあり、文化3年12月26日(1806年2月14日)に養父・田村顕承の家督を相続して小普請入りする。文政4年(1821年)に書院番士になり、文政6年(1823年)に進物番となる。
 天保5年(1834年)に小十人頭となって布衣を許可される。天保7年(1836年)に西の丸目付となる。なお、実父の姻戚にあたる脇坂安董は同年に西の丸老中格となっている。
 天保9年(1838年)に禁裏付となり京都へ上り、天保13年(1842年)には京都町奉行に就任した。仁孝天皇が崩御した弘化3年(1846年)に江戸にもどって作事奉行に就任し、嘉永6年(1853年)には勘定奉行に転じる。
 安政2年(1855年)に御三卿の田安徳川家・徳川慶頼の家老に就任する。その後、安政4年(1857年)に大目付兼分限帳改へ異動となって、翌安政5年5月(1858年)には大目付兼宗門改となるが、同年8月に慶頼が徳川家茂の将軍後見職となると、顕彰は田安家家老に再任となる。
 分家田村家の家禄は本家一関藩からの内分分知700俵であったが、万延元年(1860年)に一関藩主・田村通顕より追加の内分分知を受けて家禄2000俵となる。また、同年に田安徳川家家老を退いて西丸留守居となる。文久2年(1862年)に西丸留守居を辞任する。ちなみに翌文久3年(1863年)に子の顕謨が小納戸から使番に転じている。