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田村直顕 | 田村義顕 |
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史料によって確認できる上限は直顕であり、それ以前の正確な系譜は不明である。京都では「応仁の乱」が起り、幕府は関東の大乱を省みる余裕を失ってしまった。時代は、確実に群雄が割拠する戦国時代に移りつつあった。 |
田村盛顕の嫡男として誕生。当初は守山城を本拠としていたが、文亀4年/永正元年(1504年)に三春城を築き居城とした。
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田村顕頼 | 田村隆顕 |
22代当主・田村盛顕の次男として誕生。兄・義顕の子である24代当主・隆顕、その子・清顕に仕えて田村家中で重きをなし、合戦においては軍師を務めた。謀略に優れ、周辺諸氏からは「攻めの月斎」,「畑に地縛り、田に蛭藻、田村に月斎無けりゃ良い」と恐れられたという。永禄2年(1559年)、隆顕と共に二階堂氏の今泉城に出陣して攻落し、今泉城の城代となった。顕頼は親伊達派の有力者であったが、彼を中心とする「月一統」と呼ばれる派閥が家中で権勢をふるって内紛の原因となっていたことから、伊達政宗も月斎の排除を一時は検討したと言われている。清顕死後の家中騒動では伊達方についた。相馬義胤が三春入城を図ったが、顕頼はこれに銃撃を加えて阻止している。その後、政宗の三春入城に尽力して、反対派の排除に成功している。天正17年(1589年)の伊達氏による二階堂氏の須賀川城攻めにも従軍した。 |
田村義顕の嫡男として誕生。当時の田村氏は相馬氏,岩城氏,佐竹氏,蘆名氏などの諸大名に囲まれて苦しい立場にあったが、天文10年(1541年)に隆顕が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきた。隆顕は伊達稙宗の娘を室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤が仲介に入る形で伊達氏と和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏の従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために軍事的支援を惜しまないことを約束した。 |
田村顕盛 | 田村清顕 |
田村義顕の子として誕生。父の死後は兄・隆顕、その子・清顕に仕える。天正14年(1586年)、清顕が嗣子無くして死去すると、田村家内部で御家騒動が起こったが(天正田村騒動)、顕盛は相馬義胤や田村家重臣・郡司敏良らと共謀して、伊達政宗に与する叔父・田村顕頼(月斎)と戦った。しかし戦いでは伊達政宗を後ろ盾にする顕頼が優勢で、天正17年(1589年)に降伏したとされる。 |
田村氏25代当主。田村隆顕の嫡男として誕生。父同様に英明な武将として知られ、父の死後、その跡を継ぎ当主となる。 |
田村宗顕 | 片倉良種 |
田村氏26代当主。田村氏顕の子として誕生。初名は顕季。田村氏25代当主・田村清顕が天正14年(1586年)に嗣子のないまま没すると、家中はそれぞれ姻戚関係にある伊達氏と相馬氏の勢力争いで分裂した。相馬義胤が三春入城を企てて失敗するなどの騒ぎがあったが、伊達政宗によって顕季が田村氏の当主とされ、家中の混乱は収まった。政宗から「宗」の偏諱を与えられて宗顕と名乗る。ただし、政宗と田村月斎,田村梅雪斎ら田村氏の重臣達の協議によって、宗顕は政宗と愛姫の男子が成長して田村氏の家督を継ぐまでの「名代」として位置づけられていた(田村仕置)。 |
慶長19年(1614年)、白石城下の田村邸で田村宗顕の次男として誕生。伯母である陽徳院の懇請により仙台城で養育された。藩主夫妻や重臣が列座する中で命名式が挙行され、陽徳院から田村男猿と命名される。男猿は頭脳明晰であり、文武にも勝れていたという。 |