中国(後漢王朝)渡来系

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田村直顕 田村義顕

 史料によって確認できる上限は直顕であり、それ以前の正確な系譜は不明である。京都では「応仁の乱」が起り、幕府は関東の大乱を省みる余裕を失ってしまった。時代は、確実に群雄が割拠する戦国時代に移りつつあった。
 かくして、打ち続く戦乱のなかで田村氏は、伊達・結城・葦名氏らに伍して対等に渡り合える実力をつけていったが、それをなさしめた要因は白河結城氏との結びつきにあった。すなわち、田村直顕は結城直朝・政朝父子に付き従い、その代官的役割を果たすことで勢力を拡大していったのである。三春系の田村氏で確実な文書に名を現すのは享徳三年(1454)の書状にみえる直顕からで、直顕の「直」は直朝からの一字拝領と思われ、直朝と結びついて田村庄内きっての実力者となったことをうかがわせる。直顕のあとは、盛顕が継いで田村太郎を称した。 

 田村盛顕の嫡男として誕生。当初は守山城を本拠としていたが、文亀4年/永正元年(1504年)に三春城を築き居城とした。
 田村氏発展の基礎を築いた人物とされる。義顕は岩城常隆の娘を室とし田村氏の安泰を画したという。しかし、生来の病弱で武将としては不適任な人物であったという説もある。また、田村氏は、当初田村庄司が居城としていた守山城に拠ったといわれ、義顕の子・隆顕の代に三春に居城を移したと伝えられる。享禄5年/天文元年(1532年)、子・隆顕に家督を譲って隠居した。

 

田村顕頼 田村隆顕

 22代当主・田村盛顕の次男として誕生。兄・義顕の子である24代当主・隆顕、その子・清顕に仕えて田村家中で重きをなし、合戦においては軍師を務めた。謀略に優れ、周辺諸氏からは「攻めの月斎」,「畑に地縛り、田に蛭藻、田村に月斎無けりゃ良い」と恐れられたという。永禄2年(1559年)、隆顕と共に二階堂氏の今泉城に出陣して攻落し、今泉城の城代となった。顕頼は親伊達派の有力者であったが、彼を中心とする「月一統」と呼ばれる派閥が家中で権勢をふるって内紛の原因となっていたことから、伊達政宗も月斎の排除を一時は検討したと言われている。清顕死後の家中騒動では伊達方についた。相馬義胤が三春入城を図ったが、顕頼はこれに銃撃を加えて阻止している。その後、政宗の三春入城に尽力して、反対派の排除に成功している。天正17年(1589年)の伊達氏による二階堂氏の須賀川城攻めにも従軍した。
 顕頼の父・盛顕の没年は長享元年(1487年)といわれており、その前後の生まれとしても須賀川城攻めの際は100歳を超えていることになり、その出生は不確かな面もある。

 田村義顕の嫡男として誕生。当時の田村氏は相馬氏,岩城氏,佐竹氏,蘆名氏などの諸大名に囲まれて苦しい立場にあったが、天文10年(1541年)に隆顕が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきた。隆顕は伊達稙宗の娘を室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤が仲介に入る形で伊達氏と和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏の従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために軍事的支援を惜しまないことを約束した。
 天文の乱においては稙宗派に属す。天文16年(1547年)、晴宗派の工作によって家中で反乱が起こり、また隆顕が稙宗と晴宗の和睦を図っているが失敗に終わっている。同年、同じ稙宗派・会津の蘆名盛氏と不和を生じ、盛氏が晴宗派に転じると、乱終結後の天文18年(1549年)には稙宗派であった相馬顕胤の娘を自身の嫡男・清顕の正室として迎え、相馬と和平を結んで後顧の憂いを断った。また、天文の乱の結果、伊達氏が一時的に衰退すると、伊達氏への従属関係は事実上白紙化されて、一応の独立は回復する形となった。
 隆顕は外交戦略に優れた人物であり、伊達氏だけではなく、永禄3年(1560年)には佐竹氏と手を結んで蘆名氏を攻めたかと思えば、元亀3年(1572年)に佐竹氏が攻めて来ると蘆名氏と手を結んで撃退するなどしている。まさに小領主ながら優れた武将だった。 

田村顕盛 田村清顕

 田村義顕の子として誕生。父の死後は兄・隆顕、その子・清顕に仕える。天正14年(1586年)、清顕が嗣子無くして死去すると、田村家内部で御家騒動が起こったが(天正田村騒動)、顕盛は相馬義胤や田村家重臣・郡司敏良らと共謀して、伊達政宗に与する叔父・田村顕頼(月斎)と戦った。しかし戦いでは伊達政宗を後ろ盾にする顕頼が優勢で、天正17年(1589年)に降伏したとされる。
 顕盛に関しては誕生年そのものが不明であり、義顕の子で隆顕の弟であるということから、天正17年(1589年)の時点では90歳前後の高齢だったのではないかと推測される。なお、没年に関しては文禄元年(1592年)説もあり、死因に関しても病死のほか、郡司敏良と下枝城の戦いで戦死したものとされている。叔父の顕頼に至っては100歳を超える高齢だったものと思われ、顕頼と同じく存在に疑問視する説もある。

 田村氏25代当主。田村隆顕の嫡男として誕生。父同様に英明な武将として知られ、父の死後、その跡を継ぎ当主となる。
 佐竹氏や蘆名氏に対抗するため、一人娘の愛姫を伊達政宗の正室として嫁がせ、伊達軍の援軍を得ることで独立を保持した。伊達氏と清顕正室の実家である相馬氏との領土問題では、佐竹義重,岩城常隆を介入させ、伊達輝宗に圧力を加えて相馬義胤から丸森城を伊達氏に返還させる形で両者を和睦させた。これにより相馬の出であり清顕の正室である於北夫人の関与があったことと結果的に田村・相馬両家が依然として伊達家からも保守的な独立状態であったことが示される。
 織田信長と誼を通じていたようで、天正3年(1575年)長篠合戦にて多くの兵を討ち取ったことを信長より書状にて伝えられている。
 清顕には愛姫以外に子供、おもに男子ができなかったため、天正14年(1586年)に清顕が没するとその後釜をめぐって田村家中、及び伊達家と相馬家の間で再び争いが起きた。その後、伊達政宗により、清顕の弟・氏顕の子である宗顕が後継とされた。 

田村宗顕 片倉良種

 田村氏26代当主。田村氏顕の子として誕生。初名は顕季。田村氏25代当主・田村清顕が天正14年(1586年)に嗣子のないまま没すると、家中はそれぞれ姻戚関係にある伊達氏と相馬氏の勢力争いで分裂した。相馬義胤が三春入城を企てて失敗するなどの騒ぎがあったが、伊達政宗によって顕季が田村氏の当主とされ、家中の混乱は収まった。政宗から「宗」の偏諱を与えられて宗顕と名乗る。ただし、政宗と田村月斎,田村梅雪斎ら田村氏の重臣達の協議によって、宗顕は政宗と愛姫の男子が成長して田村氏の家督を継ぐまでの「名代」として位置づけられていた(田村仕置)。
 天正18年(1590年)、小田原征伐に際し、宗顕は伊達氏の旗下と自認していたため参陣しなかったが、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易された。その後、牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲し、子・定広と男猿(片倉氏に改正時に良種に改名)は片倉喜多の名跡を継ぎ片倉氏を称した。宗顕の子孫は現在まで片倉姓を称している。田村氏の名跡は宗顕の死後、慶安5年/承応元年(1652年)に伊達忠宗の3男・宗良が継いだ。 

 慶長19年(1614年)、白石城下の田村邸で田村宗顕の次男として誕生。伯母である陽徳院の懇請により仙台城で養育された。藩主夫妻や重臣が列座する中で命名式が挙行され、陽徳院から田村男猿と命名される。男猿は頭脳明晰であり、文武にも勝れていたという。
 寛永4年(1627年)、14歳の時に伊達政宗・陽徳院夫妻と片倉重長の相談によって白石城に居住することとなり、祖父の田村清顕が信敬した軍神愛宕尊像と新藤五国光の宝刀、幸村の描いた掛軸を下賜され、兄の田村定広とともに片倉喜多の名跡を嗣ぎ、姓を片倉に改め片倉三右衛門良種を称して、片倉家御一家となる。
 領内で行われた御狩にはつねに藩主に随行したといい、慶安3年(1650年)に藩主伊達忠宗が片倉重長と蔵王山で勢子2500余人を動員した大々的な巻狩を行った際には、3日間で鹿3000余頭,猪,熊,青鹿など100余頭を捕らえた。このときに忠宗めがけて大猪7頭が猛進してきたが、身の丈6尺の良種が早撃ちで仕留めたため、忠宗から着ていた猩々緋の陣羽織と小袖2領を下賜され、狩りの流儀を青葉流と称せよ命じられた。このことから青葉流マタギの祖とされ、青葉流の棟梁としてつねに片倉小十郎と共に藩主の側に付き添った。