<神皇系氏族>天孫系

OE04:大江千古  土師身臣 ― 大枝諸上 ― 大江千古 ― 山村良道 OE21:山村良道 ●


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山村良道 山村良利
 山村氏は大江氏の末流を称し、大江良道が近江国山村で長じたことから山村氏に改めたと伝えられている。良道ははじめ室町幕府に仕え、幕府衰退とともに任を辞して諸国を遊行したという。やがて木曽に至り木曽良元に仕え、永正12年(1515年)に須原館を襲った敵と戦って戦死した。

 木曽谷に移った山村氏は千村氏・遠山氏らと婚姻し木曽氏の重臣となる。良利は甲斐国の武田氏との取次を務めている。
 永禄7年(1564年)6月9日に義昌が黒沢若宮社(長野県木曽町)に三十六歌仙板絵を奉納した際には、良利が「中納言家」、子息の良候が「凡河内躬恒」板絵を奉納している。
 元亀3年(1572年)9月の武田信玄の西上作戦に際し、良利は飛騨国を攻略し、「山村家文書」によれば、良利は信玄から直接、美濃国恵那郡安弘見で3百貫、千旦林,茄子川の両地でさらに3百貫を与えられた。
 天正2年(1574年)3月晦日には武田勝頼から美濃の所領を安堵されている。武田氏滅亡後、天正12年(1584年)には羽柴秀吉(豊臣秀吉)から徳川方への牽制を賞されている。天正18年(1590年)に木曽義昌は下総国阿知戸へ転封され、良候はこれに従うが良利は老齢を理由に辞退し、木曽へ残留した。慶長4年(1599年)9月6日、木曽福島で死去。享年86。

山村良候 山村良勝

 弘治5年(1555年)、木曾義康が武田信玄に降ると、父・良利は信玄に重用された。元亀3年(1572年)9月、武田氏の西上作戦に際し、木曾義昌は長峰峠を越え、日和田口より三木自綱を攻めてこれを破った。この時、良利・良候親子は檜田次郎左衛門を討ち取り、信玄から感状を貰い、美濃国恵那郡安弘見の3百貫、千旦林,茄子川の両地でさらに3百貫を与えられた。
 武田家滅亡後、天正12年(1584年)3月、徳川家康と羽柴秀吉の間で小牧長久手の戦いが起こると、木曾義昌は秀吉に恭順した。このため同9月、徳川家康は菅沼定利,保科正直,諏訪頼忠に良候が守る妻籠城を攻めさせたが、良候はこれを撃退した。しかし、秀吉と家康の講和により、木曾氏は家康の傘下に入れられ、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、これに同行した。良利は木曾義昌没後はその子・義利に仕えた。しかし義利が不行状により改易されると徳川家康の家臣となった。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の石川貞清により犬山城に拘禁されたが、子・良勝が武功を挙げた。家康は、木曾衆の山村家,千村家,三尾家,原家に対して、木曽谷を与えようとしたが、良候は、木曽には中山道が通り、良質な木材が採れる土地であるから、私共が領すべきではないと上申し、その結果、代わりとして木曾衆は美濃国内に合計で16,200石を与えられた。
 慶長7年11月20日、死去。享年59。子孫は尾張藩付属となり代々、木曽谷代官となった。

 祖父・良利と良候は木曾義昌の家臣であったが、元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦において飛騨調略を成功させ、信玄から直接、美濃国恵那郡安弘見で3百貫、千旦林,茄子川の両地でさらに3百貫を与えられた。その後は父・良候と行動をともにしている。
 慶長5年(1600年)、小山評定に参加し東軍に加わり、関ヶ原の戦いでは、かつて木曾氏に仕えていたことから知悉していた中山道の先導役を務め、各地に離散中の三尾・原など、木曾衆一門の者を糾合し8月12日に贄川の砦を陥れ、豊臣方に抑えられていた木曽谷全域を制圧して美濃国苗木城,岩村城を攻めて武功を挙げた。同じく東軍に属した父・良候が西軍の石川貞清に敗れて犬山城に拘禁されると、良勝は木曾衆を率いて犬山城攻めに加わり、武功を挙げて父を救出する。
 山村甚兵衛良勝は、山村宗家として美濃国内の中山道沿いの村々4,600石を知行地として給され、父の山村道祐良候には隠居料として1,300石が給されたため、山村甚兵衛家の知行地は5,900石(後に5,700石)となり、木曽福島で山村代官屋敷を拠点として木曽全域の支配と福島関所の管理を行った。また江戸幕府からは江戸の金杉に屋敷を与えられ、交代寄合となり格柳の間詰、尾張藩からも大年寄として名古屋に屋敷を与えられた。
 大坂の陣では徳川義直に従って両陣とも出陣した。後に子の良安が早世したため、再び家督を継いで義直に再出仕している。慶長7年(1602年)に父が死去すると、家督を継いで5700石の領主となった。
 元和元年(1615年)、大坂の陣終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、山村甚兵衛良勝と千村平右衛門良重を召し出し、木曽を尾張藩に加封する旨を申し渡した。木曾全域が尾張藩の所領となったため、尾張藩主・徳川義直に仕えて2代目木曽代官に任じられた。山村甚兵衛良勝は幕府の交代寄合ではなくなり千村氏,原氏,三尾氏とともに尾張藩で木曾衆と呼ばれた旗本的な立場となった。しかし、尾張藩に付属後も幕命による福島関所の管理は変わらず、慶長13年(1608年)、子・良安に家督を譲って隠居する。慶長18年(1613年)に大久保長安事件が起こると、奉行仲間だった大久保長安の関係者として逮捕されているが、後に許された。 寛永11年(1634年)死去。享年72。

山村良豊 山村良由

 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の時に9歳であったが、父の良勝に伴われ京都二条城において徳川家康に拝謁した際に、山村用済伜三九郎と名乗り、利発なる生れと賞められた。
 元和元年(1615年)、木曽谷が尾張藩領に移管されたため、山村甚兵衛家は幕府の旗本(交代寄合)ではなくなり、尾張藩の重臣(大年寄)となった。寛永6年(1629年)、父の隠居を受けて家督を継いだ。家臣を派遣して南部駒の牝馬30頭を購入し、木曽馬の改良をはかった。
 正保2年(1645年)4月17日、山村代官屋敷が焼失、尾張藩主・徳川義直より見舞状並びに榑木3万挺が下附された。正保3年(1646年)3月、徳川義直より福島関所の守衛上騎馬同心4人(1人に付40石)の給米160石、足軽40人給(1人に付4両3分)190両の給付を受けた。
 寛文2年(1662年)、中津川代官所へ木曽福島の木曽代官所から代官を派遣するようにした。中津川代官所は、木曽福島の木曽代官所の支所的なもので、恵那郡内の知行所の年貢収納が第一の用務であり、これを主として春の宗門改め、川除け見分、秋の検見役などを行うなど、実務的処理が中心であった。すなわち、下役の者が村を廻り年貢米の処置について勘定所へ通知の上で、払下代金を処理して、勘定仕上帳を下役名印奥書で調製し、村方からの請願書も下役宛名で出させており、それぞれを中津川代官所が裁許した。しかし、重要事項や臨時の事件については木曽福島の木曾代官所に申達して年寄(家老)の指図を請けた。
 寛文4年(1664年)、尾張藩は初めて谷中巡見を行い、普請奉行の大村源兵衛らを派遣し、村々の実情山林の調査を行い、寛文5年(1665年)林制改革を断行して、山林・川狩とも尾張藩直轄とし、上松原畑に上松材木奉行所を置いた。これにより山村甚兵衛家の木曽支配は地方のみとなった。また留山の指定をし禁林区域とした。
 寛文7年(1667年)、江戸金杉の屋敷地が新堀になることになり、その替地を芝増上寺南にて2,433坪を拝領した。
 延宝8年(1680年)に致仕し、家督は長男・良忠が継いだ。翌延宝9年(1681年)1月15日死去。享年76。 

 寛保2年(1742年)3月6日、山村良啓の次男として生まれた。幼い頃から読書を好み、10歳の頃には昼夜を問わず読書にふけったため、侍医が心配して父・良啓に告げてやめさせようとしたが、返ってこれを悲しみ、食事をとろうとしなかったので、侍医も驚いて好きなようにさせたという。
 宝暦の初年、良由(蘇門)は、山村甚兵衛家の侍医で本草学者であった三村道益に学問の手ほどきを受けた。宝暦11年(1761年)、将軍代替わりの挨拶のため、父に従って江戸へ参府し、将軍・徳川家治に御目見えした。同年の江戸滞在中に、大内熊耳に師事。在府の諸名家と交流を約して木曽へ帰り、その後は疑問の点があれば書き留めておき、書状をもって教えを受けた。明和3年(1766年)、京都の江村北海に入門。前年には、蘇門の片腕となって仕えることとなる石作貞一郎(石作駒石)が伊勢の学者の南宮大湫に教えを受け、大湫と同門であった細井平洲にも教えを受けた。
 天明元年(1781年)10月、家督を嗣いで山村甚兵衛を襲名し、木曽代官の9代となる。当時、財政が困窮していたため、節約を励行し、名古屋屋敷の留守居役であった石作貞一郎(駒石)を勘定役に抜擢して整理を託した。凶作が続いたこの時期、美濃や松本から木曽谷へ米を入れるとともに、産業の振興を図り、財政を改善させた。
 天明7年(1787年)は大規模な飢饉となり、全国では餓死者が多数出ていた。蘇門は自ら領内の各村を巡視して金穀を給し、医薬を給したため、木曽では多くの人々が餓死を免れた。この業績は中山道を通行した幕府老中の松平定信が知って驚き、良由(蘇門)を幕府の老中に抜擢しようとしたところ、そのことを、尾張藩主の徳川宗睦が知るところとなり、同年10月、良由と良喬の父子は尾張藩から召し出され、12月に名古屋城へ出仕し、思召を以て、家督を甥の良喬に譲り、良由(蘇門)を尾張藩の年寄役(家老職)に抜擢され、知行3,000石を下附された。
 寛政2年(1790年)、江戸定府詰中には、85人扶持を給された。寛政5年(1793年)、従五位下・伊勢守に叙せられた。寛政10年(1798年)に病により隠居を願い出たため、尾張藩主の徳川宗睦はこれを惜しみ、家老の成瀬正典と共に止めようとしたが、良由は「人の止むる是我退くべきの秋也」と伝えた。尾張藩の年寄役を退いた後は、隠居扶持50人を給せられ、江戸の芝にあった山村家の屋敷に居住していたが、寛政12年(1800年)、芝の屋敷が火事で焼失したため、隅田川沿いの大川橋南控屋敷に移った。
 隠居した後は細井平洲と交わり、中山後凋軒から長沼流の兵法を学んだ。古賀精里,神保蘭室,樺島石梁といった全国の学者と交流を深める一方、木曽義仲を顕彰する「木曽宣公旧里碑」を建立するなど文化事業に力を入れた。著作に『清音楼詩鈔』(二巻)、『清音楼集』(五巻)、『忘形集』などがある。
 多能で、弓・馬・刀・槍から、笙・箏・書・画の技に及んで、各々は絶妙に及んでいた。晩年は古賀精里,秦滄浪,立原翠軒,樺島石梁,菅茶山との文学の交流や、詩作をして過ごした。
 文政5年(1822年)秋、侍臣に対して「速に装束を用意せよ、冬春の交 恐らくは病まん、墳墓の地で終りたい」と語った。侍臣は、木曾の寒気を怖れて留めおこうとしたが、良由(蘇門)は、聞きいれずに木曾へ帰った。文政6年1月16日(1823年2月26日)、木曽福島の山村邸において82歳で没し、興禅寺に葬られた。

山村とや(香詮院)

 田安徳川家初代当主・徳川宗武の側室。老中松平定信らの生母。実名はとや(登耶)。
 実家は尾張藩の家臣として木曽を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は本家の厄介となっていた。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受け、3男3女を儲けたが、息子は夭逝した友菊を除いて2人とも他の大名家に養子に出され、田安徳川家の家督を継ぐことはできなかった。