<神皇系氏族>天神系

NT21:中臣御食子  中臣阿麻毘舎 ― 中臣御食子 ― 中臣名代 NT22:中臣名代

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中臣名代 中臣伊賀麻呂

 神亀5年(728年7月2日)に従六位下から四階昇進して外従五位下に叙せられた。これは中央貴族に対して初めて外位への叙位がなされた例であり、同時に同じく中央貴族の巨勢少麻呂,阿倍帯麻呂らが外従五位下に叙せられている。また叙位にあたって、この位階に留まるべきでないこと、勤務の状況に応じて内位に叙するので努力を怠らないこと、についての勅が出されている。翌神亀6年(729年4月6日)の長屋王の変後に行われた叙位において、少麻呂,帯麻呂と共に内位の従五位下に叙せられた。
 天平4年(732年9月10日)、第10次遣唐使の副使(大使は多治比広成、判官は平群広成・秦朝元ら)に任じられる。天平5年(733年)4月に難波津から4隻の船に分かれて出立し、8月に4隻とも蘇州沿岸に漂着。天平6年(734年)4月に洛陽に入って玄宗への拝謁を果たした。後に蘇州から帰路についたが、東シナ海上で俄かに悪風が起こり4隻は互いに離れ離れになってしまった。名代の乗っていた第二船は福建方面に漂着し、一行は天平7年(735年)3月に長安に送り返された。同年閏11月に名代の一行は長安を発ち、唐朝からの援助を受けて船を修理し、再び帰路についた。
 天平8年8月(736年10月2日)に平城京に帰着して帰朝の挨拶をするために唐人3人(皇甫東朝,道璿,袁晋卿)と波斯人1人(李密翳)を引き連れて拝朝し、聖武天皇に謁した。同年11月(12月9日)、渡唐の功労により三階昇進して従四位下に叙される。天平10年5月24日(738年6月15日)の時点で神祇伯に任じられており、右大臣であった橘諸兄,右少弁であった紀宇美らと共に神宝を奉るために伊勢大神宮に派遣されている。
 天平12年(740年)に再従甥の藤原広嗣が乱を起こすと、連座して流罪となり、天平13年1月22日(741年2月12日)に塩屋吉麻呂,大養徳小東人らと共に大宰府に移された。
 天平17年9月19日(745年10月18日)に卒去。

 

 天平宝字6年(762年)従五位下・礼部少輔に叙任される。翌天平宝字7年(763年)子の真助および造東大寺判官・葛井根道と3人で飲酒し、忌諱すべき内容(孝謙上皇と道鏡との関係か)に話が及んだとして通報され、伊加麻呂は大隅守に左遷され、真助は土佐国、根道は隠岐国へそれぞれ流罪となった。
大中臣鷹主

 天平宝字5年(761年)第14次遣唐使が派遣されることとなり、鷹主は遣唐判官に任命される。翌天平宝字6年(762年)4月に遣唐使用に建造された船1艘が安芸国から難波江口(淀川河口)に到着するが、船が浅瀬に乗り上げるなどして船尾が破裂して使用できなくなった。そのため、遣唐使船を2艘に減らすと共に、仲石伴に代って鷹主が遣唐大使に任ぜられ、要員も2艘に乗船可能な人数に絞るなど、唐使・沈惟岳を送るための最小限の規模に縮小して再編成が行われた。またこの際に、鷹主は従五位下に叙爵している。同年夏に唐への渡航を試みるが風浪に恵まれず、結局7月になって遣唐使の派遣は中止となった。
 その後、天平宝字7年(763年)肥前守、天平宝字8年(764年)武部少輔を歴任するが、同年に発生した藤原仲麻呂の乱もしくは称徳朝で発生した政変で罰せられたらしく、官位を剥奪される。
 光仁朝に入り宝亀4年(773年)罪を赦されて本位の従五位下に復すが、光仁朝での動静は不明。
 天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく大判事に任ぜられると、天応2年(782年)鋳銭長官を経て、延暦2年(783年)従五位上・神祇大副に叙任される。延暦4年(785年)信濃守として地方官に転じるが、延暦10年(791年)になって神祇大副に再任されている。その後、正五位下・縫殿頭に至る。