NT21:中臣御食子 | 中臣阿麻毘舎 ― 中臣御食子 ― 中臣名代 | NT22:中臣名代 |
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中臣名代 | 中臣伊賀麻呂 |
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神亀5年(728年7月2日)に従六位下から四階昇進して外従五位下に叙せられた。これは中央貴族に対して初めて外位への叙位がなされた例であり、同時に同じく中央貴族の巨勢少麻呂,阿倍帯麻呂らが外従五位下に叙せられている。また叙位にあたって、この位階に留まるべきでないこと、勤務の状況に応じて内位に叙するので努力を怠らないこと、についての勅が出されている。翌神亀6年(729年4月6日)の長屋王の変後に行われた叙位において、少麻呂,帯麻呂と共に内位の従五位下に叙せられた。
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天平宝字6年(762年)従五位下・礼部少輔に叙任される。翌天平宝字7年(763年)子の真助および造東大寺判官・葛井根道と3人で飲酒し、忌諱すべき内容(孝謙上皇と道鏡との関係か)に話が及んだとして通報され、伊加麻呂は大隅守に左遷され、真助は土佐国、根道は隠岐国へそれぞれ流罪となった。 |
大中臣鷹主 | |
天平宝字5年(761年)第14次遣唐使が派遣されることとなり、鷹主は遣唐判官に任命される。翌天平宝字6年(762年)4月に遣唐使用に建造された船1艘が安芸国から難波江口(淀川河口)に到着するが、船が浅瀬に乗り上げるなどして船尾が破裂して使用できなくなった。そのため、遣唐使船を2艘に減らすと共に、仲石伴に代って鷹主が遣唐大使に任ぜられ、要員も2艘に乗船可能な人数に絞るなど、唐使・沈惟岳を送るための最小限の規模に縮小して再編成が行われた。またこの際に、鷹主は従五位下に叙爵している。同年夏に唐への渡航を試みるが風浪に恵まれず、結局7月になって遣唐使の派遣は中止となった。 |