長沢松平

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松平清直 松平正世

 天正16年10月15日(1588年)、長沢松平家の老臣として功を成した父の近清が死去し、その遺領100貫を相続する。長沢松平家の宗家であり主筋でもある松平康忠が死去し、跡目として徳川家康の息子の忠輝が養子として入嗣し、清直はそのまま忠輝に仕えた。忠輝が信濃国川中島を領す頃、清直は領内で代官を勤めるなどしている。皆川広照,山田重辰(義兄)と共に「上総介殿の三臣」と称された。
 だが家禄の膨張に伴い、大久保長安などが新たに加えられた家中では、花井吉成のような忠輝に付随した新参と、長沢松平家の古参家臣との対立が激しくなった。清直も古参派の筆頭格であった姉婿の山田重辰に加担し、三者は駿府の徳川家康に訴え出たが、逆に家康の勘気を被り清直は減封となった。皆川は家中から解雇、山田は切腹処分となった。
 慶長15年(1610年)閏2月、忠輝が越後国高田に大幅加増され移封されると、老臣に再任され5,000石の所領を与えられた。元和2年(1616年)7月、忠輝の改易により浪人する。
 元和4年5月(1618年)、将軍家に召し出されて、長沢松平家の祖先の封地に近い三河国宝飯郡形原に5,000石の所領を与えられた。ここに交代寄合としての初代・形原領主となる。慶安4年6月7日(1651年7月24日)に死去。後を嫡男・清順が継いだ。

 天正15年(1587年)長沢松平家の一族・松平近清の子として誕生。長沢松平宗家を継いだ松平忠輝に兄・清直と共に仕えたが、元和2年(1616年)、忠輝の改易によって正世たち家臣は離散した。
 後に兄は交代寄合として旗本に取り立てられた。正世は松代藩主だった松平忠昌に1500石で召抱えられた。元和4年(1618年)1500石を加増され庄兵衛と名乗る。元和6年(1620年)、越後高田にて1000石を加増。 忠昌が越前松平家の本家を相続し、福井藩主となると寛永2年(1625年)、正世は越前で2000石を加増され禄高6000石。家老となり名を備前と改める。
 寛永5年(1628年)8月12日療養先の有馬温泉で死去。享年42。子孫は、代々福井藩の家老を輩出する高知席の一家として続き、明治維新を迎えた。分家の子孫に男爵・松平正直がいる。

松平正直

 福井藩士・松平正泰の次男として生まれる。安政5年(1858年)に家督を相続。大番頭を務める。慶応3年(1867年)、坂本龍馬が福井を訪れ、三岡八郎(後の由利公正)と面談した際は、当時、八郎が幽閉中であったことから、用人であった正直と、目付の出淵伝之丞が立ち会った。戊辰戦争に会津征討越後口軍監として従軍。明治2年(1869年)、福井藩少参事となる。
 明治3年9月(1870年9 - 10月)、明治政府の民部省に出仕。明治6年(1873年)11月、内務省が新設され内務少丞に就任。内務権大書記官を経て、明治11年(1878年)7月、宮城県権令となる。同県令を経て、明治19年(1886年)7月、初代宮城県知事に就任。宮城県知事としては、産業振興,土木,教育施策の推進に努めた。産業を振興するために交通整備の必要性を認識し、野蒜築港と関連する道路の改修、水路の開削に着手し、道路整備に当たって旧慣人足使役法を適用した。教育面では、明治19年(1886年)に富田鐵之助(のち日銀総裁)とともに東華学校を設立した。明治24年(1891年)4月、熊本県知事に発令された。明治25年(1892年)2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行い死傷者が出ている。明治29年(1896年)11月、内務次官に就任し明治30年(1897年)1月まで在任。同年12月23日、貴族院勅選議員に任じられ、明治43年(1910年)10月19日まで務めた。明治31年(1898年)11月、錦鶏間祗候に任じられ、また内務次官に再任され明治32年(1899年)4月まで在任。
 明治33年(1900年)5月、男爵を叙爵した。その後、日本教育生命会社社長などを務めた。明治39年(1906年)4月1日、勲一等旭日大綬章を受章。明治43年(1910年)10月、枢密顧問官に就任した。大正4年(1915年)、胃癌のため死去。