深溝松平家

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松平家忠 松平忠利

 家忠が元服したころの深溝松平家は、本家である徳川家康に服属し、家康に東三河の支配を任されていた酒井忠次(吉田城代)の指揮下にあった。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いには父とともに従軍、酒井忠次率いる鳶巣山攻撃軍に加わったが、ここで父が戦死したために数え21歳で家督を引き継いだ。
 その後、家忠は各地の合戦に従軍するが、合戦そのものよりも浜松城,牧野城(諏訪原城),新城城,横須賀城、また高天神城攻めの付城などの城郭の普請や補修などに従事しており、土木に技能を持っていたことがうかがえる。
 天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、武蔵国埼玉郡に1万石を与えられ、忍城を本拠とした。本来忍は家康の四男・松平忠吉が10万石で与えられたものだが、忠吉はまだ幼少のため、彼が成人するまでは家忠が預ったものである。その後、忠吉が正式に城主になると改めて下総国小見川に移封され、上代城を本拠とした。
 慶長5年(1600年)、家康の命で鳥居元忠,内藤家長らと共に伏見城の守備に残り、石田三成ら西軍の挙兵を誘った。そして目論見どおりに三成は挙兵したが、家忠らは関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死し、城は落ちた。享年46。
 家忠は戦国武将としてよりも、彼が記した日記である『家忠日記』の著者として有名である。これは天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)10月までの17年間、その日に何が起こったかを簡潔に書き綴った日記である。家康や戦国武将の生活、当時の有力大名を知る上で貴重な史料となっている。原本は家忠の嫡孫で江戸時代初期の深溝松平家の当主松平忠房が修補したものが保管され現存する。

 慶長元年(1596年)から徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)、秀忠から偏諱を受け忠俊(のち忠利)と称した。
同年の関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で父が戦死したため、下総小見川の遺領を継いだ。その後は徳川家康に従って下野国まで赴き、上杉景勝の南下に備えての押さえとして残された。このとき、父の復仇に燃える忠利は戦場に赴くことを望んだが、許されなかった。戦後、関ヶ原の戦功により父祖の旧領三河深溝に1万石を与えられた。慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増された。大坂の陣に参陣し戦功をたてている。寛永9年(1632年)6月5日、51歳で死去し、跡を長男・忠房が継いだ。   
 里村紹巴と交流して連歌に優れており、「寿松院殿忠利公御連歌懐紙」という歌集がある。