<神皇系氏族>地祇系

A303:大田田根子  大田田根子 ― 鴨  蝦夷 KA11:鴨  蝦夷

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鴨  蝦夷 役 小角
 弘文天皇元年(672年)壬申の乱の勃発時、吉野宮から大海人皇子が去ってから、倭(大和国)では大友皇子の朝廷のもとで軍の編成が進められた。6月29日にその軍の指揮権を大海人皇子側の大伴吹負が計略で奪取した。これを知った鴨蝦夷は、三輪高市麻呂らと吹負の下に参集した。 吹負の軍は7月1日に北の及楽(奈良)に向けて進発した。途中の稗田で河内国から大軍が来るとの情報を得て、吹負は3部隊を分派した。そのうちの数百人を鴨蝦夷が率いて石手道を守った。配置についてから敵軍と盛んに戦ったのは坂本財らの部隊で、鴨蝦夷の部隊が戦闘に加わったかどうかは不明だが、5日には敵に圧倒されて退いた。

 天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により鴨氏(鴨君)は朝臣姓を与えられた。持統天皇9年(695年)4月17日に直広参を贈位され、賻物(葬儀の際の贈り物)を贈られた。もとの冠位は勤大壱であった。同じ日に文赤麻呂も冠位賻物を贈られており、2人ともこれより少し前に死んだと思われる。

 大和国葛上郡茅原郷に生まれる。生誕地とされる場所には吉祥草寺が建立されている。 白雉元年(650年)、16歳の時に山背国に志明院を創建。翌年17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。20代の頃に藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。命令に従わないときには呪で鬼神を縛った。人々は小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。高弟に国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足がいる。
 文武天皇3年(699年)5月24日に人々を言葉で惑わしていると讒言されて伊豆島に流罪となる。
 2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。
 中世、特に室町時代に入ると、金峰山,熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。
 寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁法親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩の諡を贈った。勅書は全文、光格天皇の真筆による。聖護院に寺宝として残されている。

賀茂吉備麻呂 賀茂虫麻呂

 文武天皇5年(701年)遣唐中位(判官)に任ぜられ、翌大宝2年(702年)渡唐する。慶雲4年(707年)3月に遣唐副使・巨勢邑治らと共に帰国、同年5月に渡唐の功労により綿,麻布,鍬,籾を賜与され、8月には従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵された。 和銅元年(708年)下総守に任ぜられるが、間もなく下総守は佐伯百足に交替し、吉備麻呂は玄蕃頭に転任する。のち左少弁を経て、和銅6年(713年)二階昇進して正五位下となる。
 霊亀3年(717年)河内守として地方官に遷ると、養老年間初頭に播磨守、養老3年(719年)には按察使に任ぜられて備前国・美作国・備中国・淡路国の4ヶ国を管轄するなど、元正朝では地方官を歴任し、この間の養老2年(718年)に従四位下に至っている。 

 天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位に伴い従五位下に叙爵。孝謙朝では従五位上・右兵衛率に叙任される一方、聖武上皇の宮中にもら仕え恩寵を受けていた。天平勝宝8歳(756年)聖武上皇が崩御すると、左衛士督・坂上犬養と共に悲しみのあまり山陵(佐保山南陵)に仕えることを望む。孝謙天皇はこれを許すと共に賞賛し、犬養は正四位上に、虫麻呂は三階昇進して従四位下に叙せられている。
賀茂角足 高賀茂諸雄

 天平勝宝元年(749年)7月の孝謙天皇即位に伴って正五位下に昇叙され、8月に紫微中台が設置されると、紫微令・藤原仲麻呂の側近としてそれまでの左兵衛率に加えて紫微大忠を兼ねる。天平勝宝9歳(757年)5月に正五位上に昇叙されるが、翌6月には遠江守として地方官に遷される。同年7月に発生した橘奈良麻呂の乱では、未然に朝廷に召喚され尋問を受けた佐伯古比奈が、角足が軍事面での活動(優れた武人たちが反乱時に敵側へ加勢することを抑止するために自邸に招いて酒宴を開くなど)を行っていたことを白状させられる。
 その結果、7月4日に角足は反乱に加担した者と共に捕縛され、反乱成功後の皇嗣候補とされていた黄文王(多夫礼と改名)・道祖王(麻度比と改名)と並んで乃呂志(のろま者)と改姓させられた上、杖で何度も打たれる拷問を受けて獄死した。

 近衛将監を経て、天平神護元年(765年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵。兄弟の円興が道鏡政権の一翼を担う中で、神護景雲2年(768年)従五位上、神護景雲4年(770年)正五位下と、称徳朝にて順調に昇進する一方、員外少納言などを務めた。またこの間の神護景雲2年(768年)には高賀茂朝臣に改姓している。
 光仁朝の後半は神祇大副,兵部大輔と京官を務める。桓武朝に入ると天応2年(782年)尾張守と地方官に転じ、延暦5年(786年)中宮亮として京官に復すが、延暦8年(789年)三河守と再び地方官に転じた。なお、光仁朝から桓武朝にかけてほぼ20年の長きに亘って昇進は叶わず、位階は正五位下のまま留まっている。

賀茂円興 賀茂峯雄

 天平宝字8年(764年)弟の賀茂田守とともに、かつて雄略天皇が葛城山で狩猟を行った際、老夫に化身していた賀茂氏の氏神の高鴨神が天皇と獲物を競ったことから、天皇が怒ってその老夫(=高鴨神)を土佐国に流してしまったことを言上する。その結果、称徳天皇は田守を土佐国に派遣して高鴨神を迎え、再び大和国葛上郡に祀った。
 道鏡政権の一員であり、天平神護2年(766年)7月中律師から大僧都に昇進し、さらに同年10月に道鏡が法王になると同時に、円興も法臣(法王の両翼を担う地位)の位を授けられた。また、大納言に準じる月料を与えられている。神護景雲2年(768年)弟子の基真によって侮り欺かれたとして、これを飛騨国に流した。
 神護景雲4年(770年)の称徳天皇崩御やそれに続く道鏡の失脚に関連しての動静は伝わらないが、光仁朝末の宝亀9年(778年)になって少僧都に任ぜられている。

 斉衡4年(857年)大外記に任ぜられ、文徳朝末から清和朝初頭に掛けてこれを務める。
 貞観4年(862年)従五位下に叙爵し、翌貞観5年(863年)相模権介に任ぜられると、貞観6年(864年)上野権介、貞観8年(866年)越前介、のち越中守と、一転して地方官を歴任した。この間の貞観12年(870年)長雨により河内国で水害が発生したことから、築河内国堤使が任命された際、岑雄はその次官を務めている。

賀茂忠行 賀茂保憲

 陰陽の術に優れ、時の帝から絶対的な信頼を得た。特に覆物の中身を当てる射覆を得意とし、帝の前でそれを披露した事もあった。安倍晴明を見出し、彼に「まるで瓶の水を移すかのように」陰陽道の真髄を教えたという。但馬丞・丹波権介を歴任し、一説には陰陽頭にも昇ったたともいうが確証はない。
 忠行は覆物の中身を当てる「射覆」が得意であったといわれ、延喜年間に時の醍醐天皇からこの腕を披露するように命じられた。忠行の目の前には八角形の箱が目の前に出され、これを占った結果は「朱の紐でくくられている水晶の数珠」であることを見事的中させ、「天下に並ぶもの無し」と賞賛されている(今昔物語)。

 父・忠行と同じく陰陽道の達人で、当時の陰陽道の模範とされるほどの評価を得ていた。また暦道も究めて、著書『暦林』10巻、及び『保憲抄』を記している。
 天慶4年(941年)7月17日に暦生ながら造暦宣旨を蒙って以降、暦博士,天文博士,陰陽頭,穀倉院別当,主計頭を歴任し、天延2年(974年)には従四位上に叙せられる。当時の陰陽家のなかに於いても極めて昇進が早く、天暦6年(952年)既に従五位下に叙せられ殿上人となっていた保憲は、当時正六位上であった父・忠行よりも位階が上になっていることに申し訳なさを感じ、大江朝綱を通じて父の昇進を願い出たこともあった。
 陰陽道のうち、暦道を子・光栄に、天文道を安倍晴明に継がせて、陰陽道宗家を二分したことが知られている。『続古事談』によれば、安倍晴明と賀茂光栄との間で、どちらが師匠の賀茂保憲に気重されていたかの論争があったという。
 保憲の残した『暦林』を元に後世書かれた『暦林問答集』は、現代においてもいわゆる旧暦を読む際の重要な資料となっており、後の暦法の発展は彼がいなければなかったといえる。

賀茂光栄 慶滋保胤

 暦博士,天文博士,大炊頭,主計頭などを歴任、一説には陰陽允を歴任したというが可能性は低い。一条朝初頭の長徳4年(998年)大炊権頭から大炊頭に昇任されるが、職務に堪えられるかどうかはわからないが、一道(陰陽道)の長であることを以て任ぜられたという。長保2年(1000年)弟の前内蔵允・賀茂光国に暦道を習伝させるよう命ぜられている。
 祖父,父に同じく抜群の腕を持つ陰陽師であったという。父・保憲は家学であった陰陽道のうち暦道を光栄に、天文道を愛弟子の安倍晴明に譲り、陰陽道の二大宗家「安賀両家」が成立した。光栄はなぜ賀茂氏の家学である陰陽道を分割してまで安倍氏に宗家の地位を与えたのか疑問に思っていたらしく晴明と争論したという。
 三条朝の長和4年(1015年)6月7日卒去。享年77。

 家学であった陰陽道を捨てて紀伝道を志し、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。
 文章博士・菅原文時に師事して文章生から大内記兼近江掾となる。康保元年(964年)に念仏結社『勧学会』の結成に力を尽くした。永観元年(983年)には元号を「永観」に改める際の詔などを起草している。
 若い頃より仏教に対する信仰心が厚く、息子の成人を見届けると、寛和2年(986年)に出家して比叡山の横川に住した。また同年、念仏結社『二十五三昧会』の結成にも関わったとされる。法名は始め心覚と称し、その後寂心と改めている。内記入道と呼ばれ、諸国を遍歴した後、洛東如意寺(如意輪寺)で没した。なお、藤原道長に戒を授けたこともあり、保胤が没した際、道長がその供養のために、大江匡衡に諷誦文を作らせたとされる。
 弟子に寂照(俗名:大江定基)がいる。
 著書『池亭記』は、当時の社会批評と文人貴族の風流を展開し、隠棲文学の祖ともいわれている。また、浄土信仰に傾倒して『日本往生極楽記』を著した。漢詩は『本朝文粋』及び『和漢朗詠集』に、和歌は『拾遺和歌集』(1首)に作品が収載されており、現代まで伝えられている。

慶滋為政

 氏は善滋とも記される。善博士とも呼ばれた。 一条朝前期の長徳4年(998年)文章生であったが、方略試に及第して権少外記に任官する。長保5年(1003年)巡爵により従五位下に叙爵し、まもなく外記を去ったと思われる。
 式部少輔を経て、一条朝末の寛弘8年(1011年)3月に大内記を兼ねるが、同年6月の三条天皇の践祚を経て、同年10月に河内守として地方官に転じた。その後、三条朝にて従四位下・内蔵権頭に叙任される。
 長和5年(1016年)後一条朝の大嘗会では主基方屏風歌を詠む。寛仁2年(1018年)文章博士に任ぜられると10年以上に亘ってこれを務め、民部権大輔,河内守も兼ねた。また、治安・万寿・長元の三度に亘って、勘申した元号が採用されている。右大臣・藤原実資の家司も務めた。
 勅撰歌人として『拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に4首の和歌作品が採録されている。