<継体朝>

K319:清和天皇  継体天皇 ― (略) ― 桓武天皇 ― 嵯峨天皇 ― 仁明天皇 ― 文徳天皇 ― 清和天皇 ― 陽成天皇 K320:陽成天皇

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陽成天皇 元良親王

 生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父清和天皇から譲位される。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母藤原高子の兄藤原基経が摂政に就いた。在位の初めは、父上皇,母皇太后および摂政基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。基経は清和に娘2人を入内させていたが、さらに陽成の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、皇太后高子が拒否したためではないかというのが近年の説である。
  基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、陽成は基経から迫られ、翌年2月に退位した(ただし、表面的には病気による自発的退位である)。
 少年時に退位して長命を保ったため、上皇歴65年は歴代1位で、2位の冷泉上皇の42年を大きく引き離す。
  後世に鎌倉将軍,足利将軍を始めとして武家の名族を多数輩出する清和源氏は、実は元平親王を祖とする陽成源氏であるが陽成天皇は暴君であるとの評判を嫌って一代前の清和天皇に祖を求めたとする説がある。

 延喜3年(903年)及び延喜7年に、当年巡給により年給を賜る。延長7年(929年)10月、彼の四十の算賀に際して妻の修子内親王は紀貫之に屏風歌を作らせた。承平6年(936年)3月、右大臣・藤原仲平らともに醍醐寺に塔の心柱を施入した。天慶6年7月26日に薨去。
 色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残るが、とくに宇多院の妃・藤原褒子との恋愛が知られる。
 後撰和歌集に20首入集したほか、『元良親王集』という歌集も後世になって作られている。