<皇孫系氏族>天智天皇後裔

K306:天智天皇 〔天智天皇後裔〕春原五百枝 HR01:春原五百枝

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春原五百枝

 母が光仁天皇の皇女・能登内親王であったことから、天応元年(781年)に皇孫(二世王)としての蔭位を受け、同母姉妹の五百井女王と共に无位から従四位下に直叙され、侍従に任官する。翌天応2年(782年)右兵衛督に任ぜられ、延暦3年(784年)には従四位上に昇叙される。
 しかし、延暦4年(785年)に藤原種継暗殺事件に巻き込まれて伊予国への流罪に処される。
 延暦21年(802年)伊予国の国府周辺に居住することを許され、延暦24年(805年)20年ぶりに赦免され帰京する。延暦25年(806年)3月の桓武天皇の崩御直前に天皇の病床に召されて本位(従四位上)に復し、天皇の大葬では御装束司を務めるとともに誄も述べている。同年4月には二世王に復すが、まもなく臣籍降下を上表して許され、春原朝臣姓を賜与される。平城朝では武蔵守を務める。
 嵯峨朝に入り、大同5年(810年)薬子の変終結後に讃岐守に任ぜられると、翌弘仁2年(811年)正四位下・宮内卿に叙任され、弘仁3年(812年)には従三位へと叙せられ公卿に列す。のち、弘仁5年(814年)右兵衛督、弘仁8年(817年)右衛門督と武官を歴任し、弘仁10年(819年)参議に昇進する。弘仁11年(820年)治部卿を兼ねる。
 淳和朝では議政官として刑部卿・右京大夫・民部卿・中務卿を兼任し、天長5年(828年)正三位に至る。天長6年12月(830年1月)19日薨去。享年70。最終官位は参議中務卿正三位兼美濃守。