H539:鎌倉景成 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景成 ― 香川景光 | H541:香川景光 |
リンク | H542 |
香川行景 | 香川光景 |
---|---|
安芸武田氏の家臣で安芸国八木城主。父の香川吉景の隠居後に、その家督を継いだ。1517年(永正14年)、武田元繁に従い、吉川領であった有田城の攻略に参加した。城主の小田信忠は必死の防戦に努め、ついには吉川・毛利連合軍が救援に駆け付けて武田軍と対峙した。武田軍は兵力において圧倒的に優勢であったが、先陣の熊谷元直が毛利軍に討ち取られると、それに激昂した武田元繁は、先頭を切って吉川・毛利連合軍へと突撃した。そのため、又打川を渡河する途上で矢が命中し、討死を遂げた。
|
当時の主家・安芸武田氏は、当主の夭折や討死などにより勢力が衰え、存亡の危機を迎えていた。その中で同じ安芸武田家臣であった熊谷信直が離反し、毛利側に転じた。1531年(享禄4年)、安芸武田氏当主・武田光和は香川光景や己斐氏等に命じて、熊谷信直を討つべく三入高松城攻略に向かった。しかし、熊谷信直,熊谷直続兄弟は寡兵ながらも安芸武田方を打ち破った(横川表の戦い)。 |
香川勝雄 | 香川広景 |
永正12年(1515年)に安芸香川氏の一族として生まれたと言われている。永正15年6月中旬、母が女児を出産するがすぐに母子共に亡くなった。鹿島流の兵法を学んだ剣道の達人である父勝直に幼い頃から鍛えられるが、大永6年2月、父勝直(38歳)も病気で亡くなる。 |
生年は不明だが、広景の誕生した頃は、以前の主家・安芸武田氏が没落し、毛利氏家臣として香川氏が活動し始めた時期にあたる。父と共に安芸八木城を拠点として、佐東川を支配する川之内水軍(後の毛利水軍)の武将として活動した。毛利氏は大内領の周防国・長門国を併呑(防長経略)した後に出雲国の尼子氏との戦いに突入、永禄8年(1565年)の第二次月山富田城の戦いに広景も参加し、突出してきた尼子軍を撃退している。尼子氏滅亡後の永禄12年(1569年)、尼子勝久,山中幸盛率いる尼子再興軍は、出雲・伯耆国の旧尼子勢力を結集して、出雲へ侵入し月山富田城を包囲した。その隙を付いて美作三浦氏が、尼子再興軍や備前国の戦国大名・宇喜多直家と手を結び、連合軍を形成して美作国に侵入し高田城に攻め寄せた。毛利氏から援軍として派遣された香川光景や広景,春継,叔父の勝雄らは高田城へ入城し、城将・安達信泰と共に抗戦したが、城内には尼子旧臣であった者が多数おり、内応者が続出して光景らは苦境に立たされた。戦いは尼子方が優勢であったが、香川一族らの奮戦によって、高田城は落城を免れるも、後に毛利軍は高田城を放棄して退却し、三浦貞広が高田城へ入城した。 |
香川春継 | 香川正矩 |
春継が生まれた頃は、以前の主家・安芸武田氏が没落し、毛利氏家臣として香川氏が活動し始めた頃にあたる。 |
慶長18年(1613年)に岩国の領主・吉川氏の家老職にある香川氏の一族として生まれる。成長後に伯父の香川家景の養子となり、岩国領香川氏の当主となった。正矩が当主となった頃はほとんどの戦乱が終息を迎えており、文に生きることに人生を見出した正矩は、主君である吉川氏の正当性を訴えるべく『陰徳記』を著した。正矩は陰徳記執筆中の万治3年(1660年)に48歳で病死したが、『陰徳記』は後に息子の“香川宣阿”こと香川景継の補筆によって『陰徳太平記』として完成を見ることとなった。
|
香川景継 | 香川景柄 |
吉川家家老の香川正矩の次男として生まれ、延宝元年(1673年)に上洛した。初め儒学者として活動したが、貞享4年(1687年)に出家したのを契機として歌人に転じ、二条派の清水谷実業(三条西家一門)や冷泉家に師事。歌道の二条派地下宗匠として梅月堂を創始した。和歌は、時衆の文学史とも深く関わった。歌集に『水雲集』がある。一条烏丸の西入町に本拠を構えた。 |
公家の徳大寺家に仕えていたが、後に歌道に専念。梅月堂四世となり京都歌壇の重鎮として活躍した。子がなかったため、養子として香川景樹を迎えた。しかし景樹は梅月堂の後継の資格が無いとして、後に離縁した。他にも養子を迎えたが、最終的に景柄の後継者となったのは香川景嗣であった。家集『黄中詠藻』を編集した。 |
香川景樹 | 香川景欽 |
因幡国で生まれる。幼い頃から読書家であり、書道も良く嗜んだ。7歳の時、父の小三次が43歳で病没し、家の柱石を失った景樹の家は一家離散の憂き目に会う。景樹は親類である奥村定賢に預けられ、実子のいなかった定賢の養子となり、彼の元で養育される。この時、純徳,真十郎と名を改める。清水貞固に師事して学問を学び、15歳で百人一首の註釈を手掛ける。また堀南湖の元で儒学にも打ち込んだ。 |
佐佐木直枝の子として広島で生まれる。長じて京都に上り、香川景柄の門人となり、後にはその才能を認められ養子となった。しかし、景柄は後に景欽を離縁した。そのため景欽は、佐々木の名字に復し、歌人として仙洞御所に仕え、烏丸佛光寺北に住まいを構えた。文政5年(1822年)正月、新年御題の懐紙・短冊を取り揃えて、光格上皇に披露。それを賞賛されて、字を君朋と賜わった。 |
香川景嗣 | |
江戸時代末期の歌人。初名は景礼、通称は木工,清三郎など。梅月堂五世。先代の梅月堂四世・香川景柄(香川黄中)の養子となった。 |