<桓武平氏>高望王系

H536:長尾景忠  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景村 ― 長尾景忠 ― 長尾景恒 H537:長尾景恒

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長尾景隆 長尾房長

 父である長尾兵庫助が早世したため、祖父・肥前守房景の跡を実兄・憲長が継いだが、憲長も早世したため顕吉が上田長尾本家を継ぐ。このとき、憲長の未亡人上条氏を妻とし、その遺児・新六(後の房長)を猶子とした。上条氏との間には景明,玖圓侍者,女子(天甫公)が生まれている。
 上杉顕定の偏諱を受け顕吉と名乗ったと云われる。しかし、上田長尾家の系図は錯綜しており、景隆と顕吉を別人とする説も多い。
 越後長尾氏の一族ではあるが、関東管領家の被官であったらしい。一部の史料では「上杉謙信の外祖父」とされることもある。上杉定実,長尾為景らが上杉房能を打倒した前後で、上田長尾本家を養子の房長が継いだ。

 上田長尾氏の当主・長尾憲長の子として生まれる。大永6年(1526年)3月、養父・長尾顕吉(叔父で母の再婚相手)の死後に上田長尾家を継いだと云われる。上田長尾新左衛門尉の子孫だとされているが、諸系図に拠っては、名を房景とし、能景の子で為景の兄弟と見做しているのも見受けられる。他にも、父を景隆とし、子である政景とは兄弟とする系図もある。
 越後長尾氏の一族である上田長尾家の当主であったが、長尾為景とは仲が悪く、関東管領・上杉顕定が越後国に侵攻してきたときには、顕定軍に属して為景を破っている。しかし為景が勢力を盛り返すと、為景に降伏してその家臣となった。以後、為景から景虎までの3代にわたって仕えている。
 天文6年(1537年)、為景の娘を子・政景の室に迎え、越後長尾家との関係を強化した。天文21年(1552年)に死去。

長尾政景 長尾景春

 大永6年(1526年)、長尾房長の子として生まれる。上田長尾氏の血統で、長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁に当たる。妻は長尾為景の娘(景虎の姉)である仙洞院。
 天文16年(1547年)、府中長尾家家中で長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると、政景は晴景側につく。上田長尾氏と対立していた古志長尾氏は景虎側だった。天文17年(1548年)12月、晴景は景虎に家督を譲って隠居した。天文19年(1550年)、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、天文20年(1551年)、景虎の猛攻に遭って降伏した。このとき、和睦の証として景虎の姉・綾姫(後の仙洞院)を正室に迎える。以後は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍し、弘治2年(1556年)に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め、復帰させる。また永禄3年(1560年)、春日山城の留守居役に任じられるなど功を挙げた。
 永禄7年(1564年)7月5日、坂戸城近くの野尻池で溺死した。享年38。これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺、下平吉長による謀殺などの説があるが、真相は分かっていない。同船していた家臣(国分彦五郎)の母の後日談では、引き揚げられた政景の遺骸の肩下には傷があったという。彦五郎はこの事件で一緒に死んだといわれる。政景が溺死したのは、宇佐美定行(定満)が城主だったとも伝わる野尻城(琵琶島城)のある野尻湖(芙蓉湖)という説もある。 実際に政景の墓が野尻湖の湖畔に作られたが、墓前での落馬が多いことから後に野尻湖に近い真光寺に移されて現存する。新潟県南魚沼市には、龍言寺(現在は山形県米沢市)の跡地に長尾政景公墓所(道宗塚)がある。
 家督は早世した長男・義景に代わり、次男の顕景(のちの上杉景勝)が継いだが謙信の養子となったため、山内上杉家と統合された形で上田長尾家自体は事実上断絶する。
 正室仙洞院とは円満な夫婦生活を営んだ。米沢市常慶院に残る「長尾政景夫妻像}の掛軸は、上部に2人の位牌と仙洞院一族の法名、来迎する阿弥陀如来が描かれている。この仙洞院の姿が俗体の若い姿で描かれていることから、政景死後に仙洞院によって制作され、御館の乱で一族の多くを失った際に法名が書き加えられ、以後も長く供養されたと考えられる。 

 越後長尾氏の祖である長尾景恒の子。三条城主・山吉伊予守長久の娘を正室に迎えた。長尾一族の仲でも特に勇猛の聞こえ高かったと云われる。
 信濃川沿いの交通の要衝である蔵王堂の地に、蔵王堂城を築いてそこを拠点とし(実際に築いたのは中条氏だという説が強い)、刈羽郡及び古志郡を守護代的権限を以って支配した。しかし、南北朝の動乱期にはここが争奪の舞台となってしまった。
 景晴は越後長尾分家の古志長尾家,蔵王堂長尾家の祖となった。兄弟の長景は上田長尾家の祖となったといわれるが、これを景晴の流れとする系図もある。 

長尾房景 長尾景信

 古志長尾氏当主で栖吉城主。明応4年(1495年)12月、幼くして父・孝景から家督を譲られる。永正2年から4年の間に元服し弥四郎房景と名乗った。
 永正4年(1507年)8月、長尾為景がクーデターを起こして房能を倒し上杉定実を新たな守護として擁立した時、房景は為景に味方し定実から恩賞として新たな所領を与えられている。しかし永正6年(1509年)に関東管領・上杉顕定が関東軍を率いて越後へ攻め入ると房景は顕定に味方し、翌永正7年(1510年)6月6日には為景方の蔵王堂城を攻め、主だった者百余人を討ち取り数百人を信濃川に追い込んだ。しかし同年8月には勢力を巻き返した定実,為景によって越後平定がなされており、房景も蔵王堂の合戦の後に為景方へ寝返った。
 以後は一貫して為景方として戦い、永正11年(1514年)の上田庄での守護方との合戦では70人余りを討ち取った。永正16年(1519年)から17年(1520年)の為景の越中進攻にも従い出撃するが、新庄の合戦で肉親や家臣を多く失うなど犠牲も大きかった。
 為景の求めに応じて転戦するうちに徐々に為景に従属していったが、自身も郡内の領主の被官化を進め、栖吉の城下町の整備を行った。享禄4年(1531年)以降は子の十郎景信が活動しており、これ以前に房景は死去または隠居したと推定されている。
 房景の後、大永・享禄年間以降の古志長尾氏は不明な部分が多いが、現在上杉家文書として房景以前の古志長尾氏関係文書が多く伝えられていることから、天文12年(1543年)の長尾景虎の栃尾入部は古志長尾氏の継承と見られている。 

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。古志長尾家当主。越後栖吉城主。古志長尾家は越後長尾氏一門衆筆頭格で、守護・上杉定実に長尾為景が反旗を翻すと、古志長尾家もこれに従った。景信の動静は享禄4年(1531年)には確認できることから、この前後に父が死去もしくは隠居して家督を継承したとみられる。為景の4男・長尾景虎の時代には上田長尾家の長尾政景や山本寺上杉家の山本寺定長らと共に景虎の重臣として名を連ねた。永禄4年(1561年)に景虎が関東管領上杉家の名跡を継ぎ上杉政虎(後に輝虎,謙信)を名乗ると景信も上杉姓を許され、以後は上杉十郎景信と名乗り、謙信の関東征伐や対武田戦に参加した。謙信の母・青岩院が景信の姉であったともいう。
 天正3年(1575年)の軍役帳には謙信の養子・上杉景勝や山浦国清に次ぐ第3位で81人の軍役を課せられていた。2年後の上杉氏家臣の名簿でも越後衆及び一門衆の筆頭に位置付けられている。だが、同じ重鎮であった政景・景勝父子の上田長尾家とは元来幾つかの小競り合いを演じた対立関係であり、謙信没後の御館の乱では謙信の養子・景勝が同じく養子である上杉景虎と家督争いを始めると、その対抗上から景虎を支持して景勝方と対立したが、居多浜の戦いで山浦国清と戦い戦死した。古志長尾家の家督は能臣・河田長親が継いだ。しかし、遺跡のみで長尾姓に改姓は辞退し、古志長尾家は事実上断絶した。 

長尾房景女(虎御前) 長尾高景

 武将長尾為景の後室。虎御前の呼び名で知られ、上杉謙信の生母にあたる。父親について『上杉家御年譜』では「栖吉城主・長尾肥前守房景」、『謙信公御書集』では「栖吉城主長尾肥前守顕吉」と記されている。
本名は不明。そもそも虎御前の名も、子の上杉謙信の幼名である虎千代に因んで後世そのように呼ばれたとも言われる。信心に篤く、謙信の信仰にも影響を与えたという。夫・為景の死後は仏門に入ってその菩提を弔う余生を過ごした。
 虎御前の父は長尾政景の祖父に当たる上田長尾家当主長尾顕吉と同一人物であるとする説も存在するが、『栖吉城主の娘』という記載はどの史料もほぼ共通しており、通説では古志長尾家・房景の娘とされている。
 墓所は上越市の春日山林泉寺から裏山に向け20分ほど歩いた宮尾野という旧集落の傍に立つ。 

 父の後を継いで上杉氏に仕える。貞治5年(1366年)に上杉憲顕より越後守護代に任じられ、蒲原郡を拠点として勢力を伸ばした。弟たちはそれぞれ古志長尾家,上田長尾家などに分かれた。
 上杉憲方の子・竜命丸(のちの上杉房方)を越後へ迎え、春日山城を築いて竜命丸の居城とし、自身は支城の鉢ヶ峰城に詰めたと云われる。嘉慶2年(1388年)には越後出雲崎から佐渡へ進駐した。その後、康応元年(1389年)に陣没したとも、討ち死にしたとも云われる。高景の跡は邦景が継ぐが、のちに景房の系統がこれに替わることになる。 

長尾邦景 長尾実景

 越後上杉家当主は在京することが多く、守護代である長尾氏に権力が集中した。このため、守護としての実権を回復させようとする守護と現地の状況を把握している守護代の対立が絶えなかった。特に応永年間末には室町幕府から守護上杉頼方を通して越後の国人達に邦景討伐の御教書が出される騒ぎとなっている(越後応永の大乱)。このため、邦景は次第に越後上杉家から宗家である山内上杉家に入った関東管領上杉憲実(頼方の弟)に接近してその傘下に入る。
 後に憲実が鎌倉公方足利持氏と対立した際には邦景は憲実を支持しており、正長元年(1428年)には6代将軍・足利義教に対して持氏の動向が不穏であることを上申を行い、同年11月には義教より管領・畠山満家を通じて謝礼の太刀が贈られている。続いて永享7年(1435年)には邦景自らが上洛して義教に対して持氏討伐について意見を述べている。
 やがて、憲実と持氏の対立の悪化によって永享の乱,結城合戦が相次いで勃発すると、邦景は憲実に援軍を派遣する。特に後者では結城氏討伐の命を受けた守護・清方に嫡男の実景及び色部重長ら有力国人を補佐として付けて出陣させ、結城合戦における越後上杉軍の活躍に寄与し、邦景父子は将軍・義教から功績を賞賛された。
 ところが、清方の死後に跡を継いだ上杉房定は、宝徳2年(1450年)に本拠を京都から越後本国に移して邦景を抑えようと図り、邦景と対立する。折りしも房定は他の上杉一族の意向を無視して持氏の子・永寿王丸(後の足利成氏)を次期関東管領に擁立しようと図った。これに対して邦景は持氏の遺児である永寿王丸は、自分の父を滅ぼした上杉一族を恨んでおり、これを復権させることは憲実をはじめとする関東の上杉氏一族を危険に晒すことになると諫言した。だが、これを山内上杉家の力を背景として主君の自分を軽んじているとみた房定は11月12日の邦景を捕らえて切腹を命じたのである。
 信濃に追われた実景は反乱を起こしたものの攻め滅ぼされ、守護代の地位は庶流の長尾頼景(邦景の甥)に移った。だが邦景の危惧は不幸にも的中し、房定の後ろ盾で鎌倉公方に就任した成氏は、関東管領・上杉憲忠(憲実の子)を「父の仇」として殺害して上杉氏討伐の兵を起こして房定らを攻め、長く続く享徳の乱を引き起こすことになったのである。 

 越後長尾家の出身。父の邦景は上杉房朝に仕えて重んじられ、関東管領・上杉憲実の信任も厚かったことから権勢を振るった。
また、実景も結城合戦の際、永享の乱で自刃した鎌倉公方足利持氏の遺児である足利春王丸,足利安王丸を捕縛するという功績を上げており、関東管領の名代として上洛して室町幕府6代将軍・足利義教に仕えていた時期もある。
 ところが、房朝の後継の上杉房定が持氏の末子・永寿王丸を新しい鎌倉公方にしようとしたところ、邦景はこれに反対したために房定に疎まれ、宝徳2年11月12日(1450年12月16日)に殺害された。実景は信濃で挙兵して房定に対し反乱を起こしたものの、房定側の長尾頼景,飯沼頼泰の軍に破れて越後根知谷の戦いで敗死した。 

長尾頼景 長尾重景

 父・景房は守護代を務めた長尾高景の末子であるが、嫡流は頼景の伯父にあたる長尾邦景が継いだため、景房・頼景父子は守護である上杉房朝に仕えた。ところが、宝徳元年(1449年)に上杉房定が守護になると房定と邦景が対立し、翌年には邦景が房定によって処刑され、これに憤慨した邦景の嫡男・実景が反乱を起こした。このため、房定は頼景と飯沼頼泰に命じてこれを討った。
 邦景父子滅亡後、頼景は守護代に就任して飯沼頼泰,千坂定高と共に国政を掌握した。折りしも関東では、上杉氏と古河公方足利成氏の間で享徳の乱が発生しており、文正元年(1466年)には関東管領山内上杉家の断絶により、急遽13歳の上杉顕定(房定の子)がその後継者となったために、実父である房定が上杉軍の事実上の総帥となって関東に留まった。そのために頼景が越後の留守を預かって政務を担当した。玄孫・景虎に至るまでの越後長尾氏の基礎を築いた人物といえる。 

 頼景・重景父子はもともと越後長尾氏の分家筋であったが、越後の守護・上杉房定が越後長尾氏の嫡流筋の長尾邦景・実景父子を滅ぼすと分家筋の頼景・重景父子が守護代として取り立てられた。
 守護代となった後は房定に仕えて関東に出陣し、武功を挙げた。応仁元年(1467年)に上杉顕定(房定の次男)が関東管領に就任すると、房定と共に幕府と古河公方の和睦に奔走し、これを文明14年(1482年)に果たすという功績を挙げている。同年2月25日に死去。後を子の能景が継いだ。

長尾能景 長尾為景

 越後守護である上杉房定・房能の二代に仕えた。房定の死後、事実上越後の実権を握り、守護の権力強化を目論む房能とはしばしば対立したが、名目上はあくまで守護代の立場に留まっていた。永正元年(1504年)の立河原の戦いで大敗を喫し、危機的状態にあった関東管領・上杉顕定(房能の実兄)を救援するために関東地方に出兵して疲弊した扇谷上杉家の上杉朝良を攻撃する。
 永正3年(1506年)、一向一揆との戦いのため越中国へ出兵するが、般若野の戦いで戦死した。越中守護代・神保慶宗の裏切りによるとされる。 

 般若野の戦いで父・長尾能景が戦死したため、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった。翌永正4年(1507年)8月「為景謀反の気あり」と守護・上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、その機先を制して房能の居館を襲撃する(為景は、房能が援軍を出さずに能景を見殺しにしたことを恨んでいたとも言われる)。逃亡中に房能が自刃すると、その養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した。
 しかし永正6年(1509年)、房能の実兄である関東管領・上杉顕定が為景に対して報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって定実とともに佐渡国に逃亡した。邑山寺にて捲土重来を期して翌永正7年(1510年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ、援軍の高梨政盛(為景の外祖父?あるいは伯父か)の助力もあり顕定を敗死させた。いったん奪われた越後の実権を取り戻すことに成功した為景は、自分の姉妹を定実に娶らせ、守護上杉家の外戚として越後の国政を牛耳ろうとした。
 大永元年(1521年)2月、長尾為景は無碍光衆禁止令、つまり一向宗を信仰することを禁止した。
 下克上の代表格であるが、朝廷や室町幕府といった権威を尊重し、しばしば即位費用等の献金を行った。これにより叙爵し信濃守となったほか、幕府より守護や御供衆の格式である白傘袋,毛氈鞍覆,塗輿を免許される。同じことは、朝倉氏や浦上氏といった他の守護代出身の戦国大名も行っており、京都の将軍と直結して家格を上昇させ、越後守護上杉氏とは異なる「長尾」という新たな家を作り上げることで、守護の権威からの自立を図ったものと言える。
 その後は越中国や加賀国に転戦して、神保慶宗,椎名慶胤らを滅ぼし、越中国の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大した が、晩年は定実の実弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ、天文5年(1536年)には隠居に追い込まれた。ただし、この年には朝廷より内乱平定を賞する綸旨を受け、更に三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、内乱鎮圧に専念するための隠居であった可能性もある。
 近年は『上杉家御年譜』の記述通り、没年を天文11年12月24日(1543年1月29日)とする説が有力視されている。晩年について『上杉氏年表』や『定本上杉謙信』では晴景に家督を譲った後も実権を握り続けたと説明している。死因については、病死説、上条側による暗殺説などもある。
 為景は、まさに戦国時代の火蓋を切る『奸雄』の一人といえる。越後国を我が物にするためであれば、主家打倒も奸計も辞さず、戦うこと百戦に及ぶと言われている。のちに上杉顕定の子憲房は「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例のない奸雄である」と評している。反面、揚北衆等の国人領主を統制できず、為景は彼らの上位に君臨する公権力として振舞うことは出来なかった。これらの課題は息子の晴景,謙信の課題として引き継がれることになる。 

長尾晴景 長尾 綾

 越後国の守護代・長尾為景の子として生まれ、幼くして主君の越後守護・上杉定実の猶子となる。定実の娘を娶ると共に偏諱を受け「定景」と名乗る。のちに将軍足利義晴から偏諱を与えられ「晴景」に改名。天文9年8月3日(1540年9月13日)に父・為景の隠居により、家督を譲られて春日山城主となるとともに越後守護代を補任された。
 父の為景と異なり穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、主君である越後守護の上杉定実の伊達氏から伊達時宗丸を迎えるかの養子縁組問題(天文の乱)で越後国内が乱れた際に中条氏らを抑えることはできなかった。伊達氏の内紛に助けられ守護上杉家の復権は阻止したものの、黒田秀忠などが反乱を起こし越後国内の情勢はますます不穏になる。
 そのような情勢の中、城下の寺院へ入門していた弟の虎千代(景虎、後の上杉謙信)が還俗して栃尾城主となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で景虎の擁立を望む(晴景の嫡子・猿千代は早世していた)ようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎える。
 そこで天文17年(1548年)には、定実の仲介のもと、景虎に家督を譲って隠居する。天文22年(1553年)2月10日に死去した。享年42。病弱なうえ戦よりも芸事を好んだ人物であったことが謙信の書状ほか諸史で伝わっている。また、後年一部の史書には景虎が晴景を殺害して家督を奪ったとする記述もあるが、多くの史書と食い違いがあり、創作と見るのが一般的である。

 越後国の戦国大名・長尾為景の娘として誕生。実弟に上杉謙信がいる(同母弟説,異母姉弟説双方がある)。
 上田長尾氏の長尾政景へ正室として嫁ぎ、婚約が成立したのは天文6年(1537年)頃といわれる。2男2女を生み、長男の義景は10歳で早世したが、次男の景勝は実子のなかった謙信の養子となってその跡を継いだ。また、江戸時代の軍記物の影響により、長女が畠山義春に次女(清円院)が上杉景虎にそれぞれ嫁いだとされていたが、現在では長女が上杉景虎室、次女が畠山義春室というのが定説である。
 永禄7年(1564年)、夫・政景が坂戸城近くの野尻池で溺死すると、謙信に春日山城へ招かれ移り住んだ。天正6年(1578年)、謙信死後の上杉氏のお家騒動である御館の乱では、上杉景虎の春日山城退去に従い景虎の正室である娘ともに御館に籠もるが、戦後には春日山城に戻った。その後は景勝の庇護を受け、慶長3年(1598年)の会津や慶長6年(1601年)の米沢と上杉氏の移封にも随行する。
 慶長14年(1609年)、死去。墓所は米沢市の林泉寺にあり、林泉寺の建立に尽力したことから林泉寺中興開基と称されている。なお、林泉寺に残された過去帳を見ると、名前は仙桃院ではなく仙洞院、法名も仙洞院殿知三道早首座とされている。仙桃院の表記は史料的価値に乏しい『北越軍談』だけに見られるもので、学界では仙洞院が正しい表記と目されている。なお、直江兼続を景勝の近習に推薦したともいわれる。

長尾景康

 越後守護代長尾為景の子で、長尾晴景の弟、長尾景房,長尾景虎(のちの上杉謙信)の兄に当たる。為景の死後は長兄の晴景が跡を継いだが、信望が無く家臣団をまとめ切れなかったため、家中は混乱していた。天文14年(1545年)、景康は越後守護上杉家の老臣・黒田秀忠の謀反に遭い、春日山において殺害される。この際、弟・景房も同時に殺害されたとみられ、もう一人の弟・虎千代はこの時床下に隠れ難を逃れ、金津新兵衛らの助けにより脱出することができた。
 虎千代はこの後、元服し長尾平三景虎と名乗り、長兄・晴景の命に従い栃尾城を本拠に秀忠ら叛乱豪族を討ち破り、兄の景康,景房の名誉を挽回した。その後も景虎は越後各地で活躍する。しかしその武功を畏れた兄・晴景と不仲となり一触即発の危機に陥るが、上杉定実の仲裁により事無きを得た。景虎はこの後関東管領上杉家の当主・上杉政虎となり長尾と上杉を合体させ(長尾上杉家)、政虎の子孫(養子の後裔のため、実際には景康,政虎の姉妹である仙洞院の子孫)は、米沢藩主として途中家名断絶の危機に陥りながらも明治維新を迎え、現在まで至っている。