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源 隆国 | 源 隆俊 |
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宇治大納言と称された。長和4年(1014年)に従五位下となり、以後、侍従,伊予介,右近衛権中将,蔵人頭などを歴任し、長元7年(1034年)、従三位参議に至る。1043年(長久4年)権中納言に任じられる。康平4年(1061年)、権中納言を辞し、子の俊明を加賀守に申任。1067年(治暦3年)正二位権大納言に任じられるが、承保元年(1074年)権大納言を辞し、外孫である藤原師兼を申任している。 |
長元8年(1035年)叙爵。左兵衛佐,左近権中将,近江介などを歴任し、永承6年(1051年)蔵人頭になり、康平2年(1059年)に参議になった。議政官として修理権大夫,近江権守,治部卿,右大弁などを兼帯するが、承保2年(1075年)3月13日薨去。最終官位は正二位権中納言兼太皇太后宮(藤原寛子)大夫だった。後三条天皇の近臣として権勢を振るっていた様子が、『古事談』などに記されている。 |
源 俊明 | 源 国明 |
父隆国は宇治殿・藤原頼通の側近として東宮時代の後三条天皇に甚だ無礼であった。その為、即位後の後三条天皇は隆国の子息達を罪科に当てようと考えていた。しかし、長男の隆俊や次男の隆綱は共にその才能を愛され、天皇の近習として重用された。そこで天皇は3男の俊明にこそ鬱憤を晴らそうとしたが、内裏の火災の際の豪気な行動を高く買われ、その才能を愛でてかえって昇進させたという。 |
父の婿であった源俊明の養子となる。左衛門佐を経て、白河院政期初頭の寛治2年(1088年)ごろ越後守に任ぜられると、寛治7年(1093年)備前守、康和4年(1102年)伊予守と白河院政期前半に受領を歴任。この間に、承徳2年(1098年)正四位下に叙せられている。白河天皇の乳母子であり白河院庁の執行別当を務めた。 |
覚猷 | |
覚猷は、若年時に出家し園城寺にて天台仏教・密教を修めながら、画技にも長じるようになった。長らく園城寺法輪院に住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めた。 |