醍醐源氏

K322:醍醐天皇  醍醐天皇 ― 源 高明 G791:源 高明

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源 高明 源 俊賢

 延喜20年(920年)7歳で臣籍降下し源の姓を賜る。天慶2年(939年)、参議に昇進。中納言,大納言を経て、康保3年(967年)右大臣を拝し、左近衛大将を兼ねた。高明は学問を好み、朝儀,有職故実に練達し、『西宮記』を著した。朝廷の実力者でかつ高明と同じく故実に通じた藤原師輔の3女を妻とし、この妻が没すると5女の愛宮を娶って友好関係を結び、師輔は高明の後援者となっていた。また、妻の姉の安子は村上天皇の中宮であり、東宮(皇太子)憲平親王,為平親王,守平親王を産み、高明は安子に信任され中宮大夫を兼ねた。高明は自身の娘を為平親王の妃とした。
 康保4年(968年)憲平親王(冷泉天皇)の即位に伴い左大臣に昇る。冷泉天皇は狂気の病があったため、早急に後嗣を立てる必要があり、同母弟であった為平親王は東宮の有力候補だった。だが、冷泉天皇の東宮には為平の弟の守平親王(円融天皇)が立てられる。高明は大いに失望した。これは高明が将来外戚となることを藤原氏が恐れたためで、この時には既に師輔も安子も死去しており、高明は宮中で孤立していた。
 安和2年(969年)、源満仲と藤原善時が橘繁延と源連の謀反を密告。右大臣・藤原師尹は諸門を閉じて諸公卿と廷議を開き、密告文を関白・藤原実頼に送り、検非違使を派遣して関係者を逮捕させた。その中には高明の従者の藤原千晴(藤原秀郷の子)も含まれていた。謀反の容疑は高明にも及び検非違使が邸を取り囲み、大宰権帥に左遷する詔を伝えた。これは事実上の流罪であり、高明は長男の忠賢ともども出家して京に留まることを願うが許されず、大宰府へ流された。これは、師輔の死後、高明と確執を深めていた藤原氏の策謀であったとされる(安和の変)。
 翌天禄2年(971年)、許されて翌年4月に帰京するも政界に復帰することは無く葛野に隠棲する。天延2年(974年)8月には封戸300戸が与えられる。天元5年(982年)、69歳で没。
 かつて高明が国司を兼ねていた備前国の住民が祠を建てて祭っており、その請いにより、文安5年(1448年)に従一位が追贈された。
 子のうち長男の忠賢は安和の変で出家したが、俊賢と経房は後に政界で昇進して活躍している。また、娘の明子は藤原道長の妻となった。

 藤原公任,同斉信,同行成と並んで一条朝の四納言と呼ばれ、摂関政治の一角を担う能吏として知られた。
 冷泉天皇の安和2年(969年)3月、俊賢11歳の時、父・高明が大宰権帥に左遷され失脚する憂き目に見舞われる(安和の変)。俊賢はともに大宰へ赴いた。
 天延3年(975年)正月7日、17歳にして従五位下に初叙。その後も昇進し永延2年(988年)正月9日昇殿、同年中に蔵人に補され、正暦3年(992年)8月28日、34歳で蔵人頭に任じ、翌年(993年)正月の除目で従四位下に昇叙、同5年(994年)9月8日右兵衛督を兼ねた。俊賢が右中弁から蔵人頭になった際、本来は頭中将から参議に遷った藤原公任の後任を選ぶ人事(頭弁として源扶義がいた)である筈なのに俊賢が選ばれたことで頭弁が2人になってしまった。その選ばれた背景には関白・藤原道隆の恩遇があったとされ、俊賢が道隆に自己を推薦したという逸話がある。彼は後々までそのことを忘れず、道隆の死と中関白家が没落した後でも、自身は道長の側近かつ義兄であるにもかかわらず、中関白家に対しても忠義を尽くした。
 長徳元年(995年)8月28日、参議に昇進するに際し、後任の蔵人頭の人選について一条天皇の諮問を受け、藤原行成を推挙。父祖に早世され沈淪した青年期を過ごした行成は、この俊賢の進言あってこそ、一条天皇によって一挙に地下から万人垂涎の重職である蔵人頭に抜擢され、以後順調な官途を歩んだのである。行成は俊賢より13歳年下であったが、二人は後々まで相許した親友で、俊賢は行成男・良経の加冠役を勤め、嫡子顕基の後妻に行成女を迎えたとされる。
 その後の俊賢は、寛弘7年(1010年)12月17日に生涯の極位である正二位に、寛仁元年(1017年)3月4日には極官である権大納言にそれぞれ至る。また寛仁4年(1020年)11月29日、民部卿に遷任された。この間、長保4年(1002年)より道長女中宮彰子の権大夫を務め、のち大夫、彰子が皇太后,太皇太后へと進むに従い転任し、20余年の間、宮大夫に在職した。
 寛仁の初め、三度辞表を奉り、万寿3年(1026年)10月20日、致仕を聴される。万寿4年(1027年)6月12日、病篤きによって出家し翌日薨去。

源 顕基 源 家賢

 寛弘8年(1011年)、12歳で叙爵。その後、藤原頼通の猶子になったこともあって順調に昇進し、蔵人頭・参議などを歴任した。36歳の時点で正三位権中納言に至るが、長元9年(1036年)4月17日恩寵篤い後一条天皇の崩御に遭い、同年4月21日大原にて出家、のち横川に隠棲した。法名は円照。延殷や仁海に師事したが、永承2年(1047年)9月3日、48歳で入滅した。
 漢詩,和歌,舞楽,琵琶,弓射に堪能で、青年貴族の理想像とも言うべき貴公子だった顕基が「忠臣は二君に仕えず」と後一条天皇に殉じて突然出家したことは、当時の人々に衝撃を与えたらしい。その発心譚を始めとして、「配所の月罪なくして見ばや」の有名な言葉、白居易の「古墓何代人、不知姓与名化作路傍土、年々春草生」を愛唱したこと、子息俊相の行く末を憂える親心、恋人だった遊女との哀話、上東門院との贈答歌、安らかな大往生の有様など数多くの説話となって当時の人々に語り伝えられたという。

 康平3年(1060年)叙爵。右衛門佐などを務め、延久5年(1073年)2月の後三条上皇天王寺御幸にも供奉している。承保2年(1075年)1月28日に従三位非参議になる。承暦4年(1080年)8月14日に参議となり、応徳3年(1086年)権中納言に任ぜられた。寛治5年(1091年)1月29日、伊勢神人が神領に関する紛争がもとで家賢の邸宅を囲むという事件があった。嘉保2年(1095年)8月、48歳で薨去した。
 歌人でもあり、承暦2年(1078年)内裏歌合、寛治5年(1091年)従二位親子(白河天皇の乳母・藤原親子のこと)草子合、寛治7年(1093年)郁芳門院媞子内親王根合に参加している。

源 経房 源 長季

 出生と同年に父が安和の変で失脚し大宰府に流されたが、姉が権力者の妻となったことも手伝って順調に昇進した。永観2年(984年)従五位下に初叙。侍従・兵衛佐などを経て、長徳2年(996年)右近権中将、同4年(998年)左近中将、長保3年(1001年)蔵人頭、寛弘2年(1005年)参議、長和4年(1015年)権中納言、寛仁2年(1018年)正二位に昇った。寛仁4年(1020年)大宰権帥を兼ね、翌治安元年(1021年)鎮西に赴任し、同3年(1023年)10月12日任所において55歳で薨じた。
 姉婿・道長の猶子でありながらその政敵である中関白家とも近しく、藤原隆家が長和年間に帥として大宰府に赴く際、経房に定子の遺児敦康親王を託したことが『栄花物語』に記されている。隆家の長男・良頼は娘婿でもある。『枕草子』にも「左中将」としてたびたび登場し、特に跋文の「左中将、まだ伊勢守と聞こえし時」の一段には、『枕草子』を最初に世上に広めたのが彼であると書かれ、『枕草子』の成立を考える上で重要な人物である。

 少納言・右衛門権佐(検非違使佐),右馬頭,土佐守,備前守などを歴任した。摂関家に仕える家司であると共に、朝廷に仕える官人でもあった。地方官として各地の受領を務め、地方の発展に尽くし、盗賊の捕縛などの記録のある人物で、在世中に良吏であると名を馳せたという。
 藤原頼通と親密であったとする逸話がある。

源 盛長

 始め白河天皇在位中に昇殿を聴され、右衛門尉に任官する。同時期に六位蔵人も務めた。堀河天皇の即位後は、藤原師実の家司としての活動が目立ち、たびたび師実とその子師通間の伝達役となった。寛治2年(1088年)11月には春日祭において前駆を勤めたが、この時点で五位の位階にあったことが知られる。同年12月に左衛門佐に任ぜられ、寛治7年(1093年)には中宮大進となり中宮・篤子内親王に仕えた。
 寛治8年(1094年)3月、師実の孫・忠実が左近衛大将に任ぜられて慶賀を申す折には前駆に勤仕。同年6月13日に中宮大進を辞退したが、永長2年(1097年)正月に従四位下に叙せられた。後、康和5年(1103年)頃に淡路守を務めた。極位は従四位上。晩年は出家して淡路入道を称された。
 蹴鞠の名手で、承暦4年(1080年)に行われた内裏の鞠会に名が見える。また『今鏡』には藤原師実の前で上手に鞠を蹴って師実の賞賛されたため、同じく師実の家司で蹴鞠での競合相手であった藤原行綱の妬心を起こさせた話がある。