光孝源氏

G714:源 是茂  光孝天皇 ― 源 是茂 ― 蒲池久直 G715:蒲池久直

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蒲池久直 蒲池 圓

 平安時代末期から鎌倉時代初頭の武将。蒲池氏(前蒲池)の祖。
 平忠盛,平清盛と平家の知行地である神埼荘の武士として源平合戦では松浦党の諸氏と同じく当初は平家方であったが、壇ノ浦の戦いにおいて松浦党が源家方に与したのと同じく久直も源家方に立ち、その手柄により鎌倉幕府の鎮西御家人になり、源頼朝から筑後国三潴郡の地頭に任じられる。同地を支配していた橘公頼の子孫の筑後橘氏の娘婿となり、その勢力を背景に蒲池城を本拠地として蒲池氏の初代となる。

 『蒲池物語』や『筑後国史』『下野宇都宮氏正統系図』は、承久年間の松浦氏の源三圓(げんざ・つぶら)こと源圓(みなもとの・つぶら)が蒲池氏の祖と記しているが、承久3年(1221年)の承久の乱に蒲池行房が、後鳥羽上皇の反幕府・朝廷側の武家として参加し、幕府の勝利により一族滅亡の危機に直面している。行房は、薩摩国の遠隔飛び地の所領黒島で終生蟄居の身となり、松浦氏一族の源圓(源三圓,源円,源三円)を婿養子に迎え、圓に名跡を譲り、圓が渡辺党蒲池氏として新たに家を興した。この源圓による渡辺党蒲池氏の起こりの消息が、渡辺綱の流れを汲む源圓を蒲池氏の祖とする伝承の元となっている。元寇の際には蒲池諸久が松浦党の一族として出陣し、執権北条時宗からの感状を受けた。
蒲池久氏 蒲池武久

 鎌倉時代中期の武士・御家人。蒲池氏6代当主。父・行房は承久3年(1221年)に勃発した承久の乱で、鎌倉幕府打倒を掲げ挙兵した後鳥羽上皇側に属したため、幕府方の勝利により、薩摩国の飛び地自領で終生蟄居の身となった。子・久氏は妻方の生家の宇都宮氏を継ぎ、宇都宮久氏として蒲池氏の名跡から離れた。
 蒲池氏の遺領は松浦氏一族の源圓が継ぎ、圓が新たに松浦党蒲池氏を興した。圓には嗣子がなく、久氏が圓の養子という形で蒲池の名跡に戻り、蒲池久氏となった。

 南北朝時代は南朝方に属し、菊池武敏が足利尊氏を迎え撃った1336年(建武3年)の多々良浜の戦いで蒲池武久が嫡子の無いまま討ち死にした。武久には嫡子がおらず、その死後、蒲池氏は、懐良親王の率いる南朝方の力が衰えるまでの約20年間、領主不在の状態となり、所領は武久の娘が「女地頭」としてかろうじて守っていた。
 この源久直にはじまる「嵯峨源氏の蒲池氏」と、源圓を祖とする「嵯峨源氏渡辺党松浦氏の蒲池氏」を、蒲池氏の時代区分から「前蒲池」という。