嵯峨源氏は一字名が有名だが、源是茂と弟の源衆望は、二字名の嵯峨源氏である。その由来は、是茂の実父は源融の子・源昇であるが、光孝天皇の養子となったためである。 |
平安時代後期の武将。嵯峨源氏も代が重なり、源満末の代になると都での栄達の途はない中下級貴族となり、新天地を求めて地方に下ることが多くなる。満末もまた従五位下の位をもらい、仁安3年(1168年)に九州の肥前国の天皇家直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官(荘園管理官)として下向。神埼の豪族である松浦党山代氏の力を背景に武士として土着。神埼は日宋貿易に着目していた平忠盛以来、平家が知行しており、満末が下向した頃は平清盛の全盛期であったこともあり、満末は山代氏や他の松浦党と同じく平家の傘下に置かれる。 |
源 旧鑑 |
源 近善 |
名は職鑑とも書く。貞観12年(870年)2月、源朝臣姓を賜り臣籍に下った。父・時康親王が光孝天皇として即位した後の元慶8年(884年)、時服月俸に与り、無位から従四位上に叙位された。仁和2年(886年)1月、備前守になる。その後、左京大夫などを経て正四位下大蔵卿になった。延喜8年(908年)2月卒去。 |
貞観12年(870年)2月、源朝臣姓を賜り臣籍に下った。元慶元年(877年)11月、正六位上から従五位下に昇進し、信濃権守になる。元慶8年(884年)5月、父・時康親王が光孝天皇として即位したことにより従四位上に叙され、同年6月改めて氏姓を賜って兄弟姉妹とともに左京一条に付せられ戸頭となった。仁和3年(887年)5月、越前権守になる。その後、治部卿になる。延喜18年(918年)7月14日薨去。 |
源 経任 |
源 政成 |
万寿2年(1025年)7月での官職は六位蔵人・内記。万寿3年から4年にかけて蔵人兼式部丞だった。『後拾遺和歌集』に、五位に叙されて殿上を降りるときに詠んだ嘆きの歌が収録されている。 『大鏡』には、零落した藤原済時女が横領された領地の回復を藤原道長に愁訴した帰途、南大門でその袖を引いたのが経任で、このため経任は勘当されたという話が記述されている。
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平安時代後期の官人・歌人。『勅撰作者部類』に「五位式部大丞」とあり、また『尊卑分脈』に「勘解由判官従五位下」と記載されている。しかし『後拾遺和歌集』には「源政成朝臣」と記載しているので、少なくも従四位下には昇進したものと推察される。『後拾遺和歌集』に2首入集している。ちなみに父経任も『後拾遺和歌集』に入集する勅撰歌人だった。 |