<藤原氏>北家 利仁流

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加藤景通 加藤景季
 子の景季とともに源頼義・義家の家人として名高い。加藤氏の祖とされる。加賀介、修理少輔。相模などに領を得ていたが、本来は美濃を本貫としていた武士で、『尊卑分脈』に拠れば藤原利仁の後裔とされており、河内を本貫としていた藤原則明の同族である。『陸奥話記』にも登場し、前九年の役で源頼義の郎党として大宅光任,清原貞広,藤原範季,藤原則明らと共に従軍し、安部貞任らを攻めた際の勲功一等として、七騎武者随一であると言われた。この戦役によって子の景季は落命したが、子孫は加藤氏として栄えた。 

 『陸奥話記』に登場する。父・景通が美濃国を本拠として同国内に荘園を持っていたため同地で生まれたものと思われる。源頼義の嫡男である義家の武芸指南役を務め、景通と共に時の関白太政大臣・藤原頼通始め藤原摂関家との交流も持っていた。また剣と弓に優れていたとも伝わる。前九年の役に従軍し、天喜4年(1056年)の黄海の戦いにおいて安倍貞任軍により頼義軍が敗走する中、踏み留まって奮戦するも最期は貞任に討たれる。20歳余の生涯であった。
 景季の子孫は、源氏の中で「季」の字を名乗る一門であるとされている。武功にあやかって、藤原氏にも季を名乗る者が多かったと言われる。京武者であったころ京で暮らしており、またその子孫は但馬国司であった摂津源氏(源頼光一族)との縁組をしたとされている。現在もその子孫は、豊岡で寺谷姓を名乗っているとされている。 

加藤景員 加藤光員

 藤原利仁の末裔とも、能因法師の子孫とも伝えられる。『源平盛衰記』によると、伊勢で平家の侍を殺害したことから、本領の伊勢を離れて伊豆国の豪族である工藤氏の元に身を寄せたという。
 治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵に息子たちと共に参じ、石橋山の戦いで敗走したのち箱根山へ逃れた。老齢の景員は、自らは足手まといであるとして、ここへ置いて頼朝を捜すように息子たちを促し、山中で出家した。同年10月、相模国国府で頼朝により本領を安堵される。元暦元年(1184年)7月、三日平氏の乱で伊賀国へ平氏残党の追討の命を受ける。
 文治元年(1185年)2月、頼朝の御所を訪れ、病身で西国の平氏追討軍に加わった景廉からの書状を頼朝に見せながら、息子の身を案じて涙している。

 治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵に父や弟と共に参じ、石橋山の戦いで敗走して箱根山中へ逃げ込み、弟・景廉と共に甲斐国へ逃れる。10月、鉢田の戦いで武田氏と共に駿河国目代・橘遠茂を攻め、光員が遠茂を討ち取る武功をあげた。
 文治元年(1185年)、平家の有力家人であった藤原忠清を光員の郎従が捕らえている。文治3年(1187年)、所領の多くがある伊勢国で公卿勅使伊勢駅雑事対捍の件で訴えられている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍。
 元久元年(1204年)、三日平氏の乱で平家残党を追討した賞を受け、西面武士として検非違使に任ぜられ、大夫判官と称した。その後、伊勢守となり、承久3年(1221年)の承久の乱では、京方に属したため所領の伊豆国狩野牧は没収され、弟の景廉に与えられた。没年は不明だが、乱後間もなく死去したものと見られる。
 弟の加藤景廉の子で、甥にあたる遠山景朝の領地である美濃国恵那郡遠山荘の明知に、光員一族の墓とされる五輪塔が存在している。

加藤景廉 加藤景正

 加藤氏は元々伊勢国を本拠とし、伊勢加藤氏の館は、安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったと言われているが、明確な所在は不明。平氏との争いにより父・景員に従って伊豆国に下り、工藤茂光らの協力を得て土着勢力となった。嘉応2年(1170年)に伊豆諸島で勢力を伸ばした源為朝討伐に従軍し、大敗して自刃した為朝の首をはねて、戦功を挙げたと伝わる。治承4年(1180年)、源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、父や兄と共にその麾下に参じ、平氏の目代・山木兼隆を討ち取るという大功を立てた。
 頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、兄・光員と共に甲斐国大原荘に逃れるが、やがて武田氏と共に駿河国に侵攻、鉢田の戦いで目代・橘遠茂を攻め滅ぼす。その後、頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と称されるようになり、景廉は側近として頼朝に仕えた。病持ちであったと見られ、寿永元年(1182年)6月7日、鎌倉由比浦で弓馬の芸の披露が行われた後の宴席で気を失い、佐々木盛綱が大幕で景廉を包み抱えて運び出したという。翌日、頼朝が車大路の景廉の家へ見舞いに訪れている。
 元暦元年(1184年)から翌年にかけての源範頼率いる平氏追討に病身を押して参加、頼朝の賞詞を得る。その後の奥州合戦でも戦功を立てた。頼朝の信任は厚く、建久4年(1193年)頼朝の命により安田義資を誅殺し、その父・義定の所領遠江国浅羽庄地頭職を与えられた。
 頼朝が死去した後、正治2年(1200年)に梶原景時の変で梶原景時が滅ぼされると、これと親しかったため一旦は連座して地位を失う。建仁3年(1203年)9月の比企能員の変において、北条時政の命で比企能員を謀殺した仁田忠常を、北条義時の命によって景廉が謀殺している。その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、再度元老の座に返り咲いた。三代将軍・源実朝が暗殺された際、警備不行き届きの責任を感じて出家し覚仏と改名。承久3年(1221年)6月の承久の乱では宿老の一人として鎌倉に留まったが、8月3日に没した。
 その他にも美濃国恵那郡遠山荘も領地として与えられた。恵那市岩村町の八幡神社には加藤景廉が祭神として祀られており、岩村町歴史資料館には加藤景廉公の神像が保存されている。長男の景朝が岩村城を本拠地として遠山氏の初代となり、遠山景朝と称し地頭となり戦国時代末期まで存続した。その分家苗木遠山氏は江戸時代に苗木藩1万石の大名となり廃藩置県まで存続して明治に子爵となった。また分家明知遠山氏は江戸幕府の旗本となった。江戸の町奉行となった遠山景元(遠山の金さん)は、明知遠山氏の分家の子孫である。
 その他に豊臣秀吉の直臣として活躍した加藤嘉明など、景廉の子孫は伊勢,伊豆,甲斐,美濃,尾張,三河、その他全国に広まった。

 鎌倉時代前期の陶工で、愛知県瀬戸市域を中心とする瀬戸焼(瀬戸窯)の開祖とされる。
 通称は四郎左衛門。これを略して藤四郎とも呼ばれた。号は春慶。加藤景廉の弟と伝わるが、その実像については不明な点が多い。現代の瀬戸,美濃界隈では陶工の本家の陶祖として語り継がれている伝説的人物である。
 一般的な説では、貞応2年(1223年)に道元とともに南宋に渡り、5年後の嘉禄3年(1228年)に帰国の後、全国を放浪した後に尾張国の瀬戸で陶器に適した土を見つけて、仁治3年(1242年)頃に窯を開いたとされている。一方で寛文12年(1672年)の『茶器弁玉集』には道元との入宋以前から瀬戸で窯業を営んでいたとの記述もあるという。子の加藤基通も藤四郎を名乗ってその家は12代にわたって続いたとされ、現在も愛知県瀬戸市には深川神社の境内社として景正を祀った陶彦神社が存在する。
 その一方で、瀬戸で茶入が焼かれたのは室町時代であるとされ、景正の作品とされるものでも制作年代に疑問を持たれているものもある。また窯跡の発掘調査に基づく考古学の研究成果では、施釉技法を持つ瀬戸窯が成立したのは平安時代中期(10世紀末)の灰釉陶器窯からであり、景正の開祖伝説の年代とはまったく一致しないことが明らかとなっている。
 ただし、瀬戸で無釉の山茶碗窯の時期(11世紀末~12世紀代)を経て、再び釉薬を用いた陶器製造が復活(古瀬戸様式)したのは鎌倉時代前期の12世紀末であることが発掘調査により判明しており、かつ「道元との入宋以前から景正が製陶を営んでいた」などの先述の伝承などを勘案すると、陶祖が存在した時期と古瀬戸様式の成立時期は概ね近しくなるため、景正あるいはそのモデルとなった人物が、山田郡に窯を定め、製陶法を瀬戸界隈に伝え、瀬戸焼(古瀬戸様式)の基礎を構築した可能性も否定はできないともされている。
 景正の遺徳を偲ぶ祭りとしては、1962年に「せと陶祖(陶器)まつり」が愛知県瀬戸市にて始まり、毎年4月下旬頃に開催されている。現在瀬戸,美濃では陶祖と言われると加藤景正のことを指すが、景正の子孫並びに末裔が美濃国(岐阜県多治見市,土岐市,可児市界隈の笠原,市之倉,定林寺,下石,妻木,肥田,駄知,久尻,高田地区など)に移り住み、景正の末裔がそれぞれの村(現在は町単位)での陶祖とされ現在に至っている。
 明治38年(1905年)、正五位を追贈された。

加藤広兼
 嘉明系加藤氏はもとは岸氏を名乗っていたとされ、父である岸教明の名が文献にみえる。嘉明の祖父・加藤朝明は、元来は甲斐の武田氏の家臣であったが、何らかの事情があり、三河国に移住し、徳川家康の祖父・松平清康,父・松平広忠に仕えたとされるが、嘉明の作成した系図以外にその名は見えず、また加藤氏も加藤景泰の猶子となったことから使用をはじめたとされる。光泰系加藤氏と系図がつながるのはそのためである。