F831:藤原利仁 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 藤原重光 | F837:藤原重光 |
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加藤景通 | 加藤景季 |
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子の景季とともに源頼義・義家の家人として名高い。加藤氏の祖とされる。加賀介、修理少輔。相模などに領を得ていたが、本来は美濃を本貫としていた武士で、『尊卑分脈』に拠れば藤原利仁の後裔とされており、河内を本貫としていた藤原則明の同族である。『陸奥話記』にも登場し、前九年の役で源頼義の郎党として大宅光任,清原貞広,藤原範季,藤原則明らと共に従軍し、安部貞任らを攻めた際の勲功一等として、七騎武者随一であると言われた。この戦役によって子の景季は落命したが、子孫は加藤氏として栄えた。 |
『陸奥話記』に登場する。父・景通が美濃国を本拠として同国内に荘園を持っていたため同地で生まれたものと思われる。源頼義の嫡男である義家の武芸指南役を務め、景通と共に時の関白太政大臣・藤原頼通始め藤原摂関家との交流も持っていた。また剣と弓に優れていたとも伝わる。前九年の役に従軍し、天喜4年(1056年)の黄海の戦いにおいて安倍貞任軍により頼義軍が敗走する中、踏み留まって奮戦するも最期は貞任に討たれる。20歳余の生涯であった。 |
加藤景員 | 加藤光員 |
藤原利仁の末裔とも、能因法師の子孫とも伝えられる。『源平盛衰記』によると、伊勢で平家の侍を殺害したことから、本領の伊勢を離れて伊豆国の豪族である工藤氏の元に身を寄せたという。 |
治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵に父や弟と共に参じ、石橋山の戦いで敗走して箱根山中へ逃げ込み、弟・景廉と共に甲斐国へ逃れる。10月、鉢田の戦いで武田氏と共に駿河国目代・橘遠茂を攻め、光員が遠茂を討ち取る武功をあげた。 |
加藤景廉 | 加藤景正 |
加藤氏は元々伊勢国を本拠とし、伊勢加藤氏の館は、安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったと言われているが、明確な所在は不明。平氏との争いにより父・景員に従って伊豆国に下り、工藤茂光らの協力を得て土着勢力となった。嘉応2年(1170年)に伊豆諸島で勢力を伸ばした源為朝討伐に従軍し、大敗して自刃した為朝の首をはねて、戦功を挙げたと伝わる。治承4年(1180年)、源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、父や兄と共にその麾下に参じ、平氏の目代・山木兼隆を討ち取るという大功を立てた。 |
鎌倉時代前期の陶工で、愛知県瀬戸市域を中心とする瀬戸焼(瀬戸窯)の開祖とされる。 |
加藤広兼 | |
嘉明系加藤氏はもとは岸氏を名乗っていたとされ、父である岸教明の名が文献にみえる。嘉明の祖父・加藤朝明は、元来は甲斐の武田氏の家臣であったが、何らかの事情があり、三河国に移住し、徳川家康の祖父・松平清康,父・松平広忠に仕えたとされるが、嘉明の作成した系図以外にその名は見えず、また加藤氏も加藤景泰の猶子となったことから使用をはじめたとされる。光泰系加藤氏と系図がつながるのはそのためである。 |