F061:藤原巨勢麻呂 | 藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原真作 | F065:藤原真作 |
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藤原富士麻呂 | 藤原敏行 |
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淳和朝において、春宮・正良親王に仕えその寵遇を受ける。天長10年(833年)春宮少進に任ぜられ、やがて近衛将監に転任する。同年3月の正良親王の即位(仁明天皇)に伴い、従五位下・右近衛少将に叙任された。承和4年(837年)阿波介を兼ねる。
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三十六歌仙の一人。貞観8年(866年)少内記。大内記,蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛権佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。 |
藤原伊衡 | 藤原興世 |
宇多朝において春宮帯刀舎人を務め、春宮大進次いで春宮亮を務めた父・敏行と共に皇太子・敦仁親王に仕える。寛平9年(897年)7月に敦仁親王が践祚(醍醐天皇)すると、帯刀舎人としての功労により右兵衛少尉に任ぜられるが、9月に敏行が右兵衛督となったため、伊衡は左衛門権少尉に遷る。のち、六位蔵人も歴任した。 |
元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介・良岑近は防戦しかねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守・藤原興世も逃亡してしまう。
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藤原三成 | 藤原岳守 |
弘仁11年(820年)従五位下に叙爵し、まもなく主殿頭に任ぜられる。淳和朝では春宮亮として皇太子・正良親王(のち仁明天皇)に仕える一方、天長2年(825年)従五位上次いで正五位下、天長7年(830年)従四位下に叙せられるなど順調に昇進した。しかし、正良親王の即位を見ることなく、同年4月30日卒去。享年45。 |
若くして大学で学ぶが、史伝を読み漁り、たいそう草隷も習ったという。天長元年(824年)より皇太子・正良親王の身近に仕えるが、物事に応対する際の立ち居振る舞いが優雅であるとして、正良親王に重んじられたという。天長3年(826年)内舎人に任ぜられる。 |
藤原岳雄 | 藤原正範 |
承和8年(841年)従五位下に叙爵し、のち左衛門権佐に任ぜられる。 |
美濃国と信濃国は古来より国境を相争って確定していなかった。そこで、貞観年間に従六位上・左馬権少允の官位にあった正範は刑部少録・靫負継雄と共に国へ派遣され、両国の国司と共に美濃恵那郡と信濃筑摩郡の間にある県坂山岑を国境にすべきとした。その際、正範は古記録を確認した上で、国境を確定した。
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藤原季縄 | 右近 |
前半生は不詳の点が多いが、『大和物語』101段によると、延喜19年(919年)右近衛少将を務めているときに病に冒される。季縄は病をおして出仕した際、当時掃部助,蔵人を務めていた源公忠に対して、「体調は良くないが、仕事をしないと心地悪いので出仕しました。ひとまず出仕したまでなので本日は退出しますが、明後日には正式に出仕するので帝にもお伝えください。」と伝えて退出した。 |
平安時代中期の女流歌人。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王,藤原敦忠,藤原師輔,藤原朝忠,源順などと恋愛関係があった。960年(天徳4年)と962年(応和2年)の内裏歌合・966年(康保3年)の内裏前栽合などの歌合に出詠、村上天皇期の歌壇で活躍した。 |
藤原美都子 | |
平安時代初期の貴族女性、女官。幼少期は斜陽の一族に産まれ不遇であったと推測されるが、藤原冬嗣の妻となり、3男1女を儲けると共に、自らの親族関係をももって冬嗣の政界工作に貢献したと考えられている。弘仁5年(814年)4月28日、冬嗣・美都子夫妻の邸宅である閑院第に嵯峨天皇が訪問し、その時に無位から従五位下に任官される。後、尚侍となり、嵯峨天皇,淳和天皇の2代の天皇に仕え、後宮で権勢を振るった。冬嗣は艶福家であったが夫婦仲は良かったらしく、死後、美都子の遺言によりこの時代には珍しく冬嗣の墓に夫婦合葬された。後に従一位を贈られる。 |