嵯峨源氏

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渡辺守綱 渡辺重綱

 江戸幕府旗本。通称は半蔵。徳川家康に仕えた。槍が得手であり、1562年の三河国八幡の合戦で今川氏真の将・板倉重貞に敗れた際、後尾にあって奮戦したこと以来、「槍半蔵」と称されたという。「鬼半蔵」の服部正成と並び称された。三河国額田郡浦部村出身。三河寺部城主。
 守綱は、若い頃から同年生まれの松平家康(のちの徳川家康)に仕えたが、熱心な一向宗の門徒だったので、永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆において他の門徒家臣と同じく家康に背き、一向一揆に加わった。一揆が家康によって破られると反逆を許され、家康に帰参。以後は家康配下の勇将として家康の主要な戦いの大半に参加し、姉川の戦いでは、旗本一番槍をあげるなどの戦功を重ね、旗本足軽頭として出陣した三方ヶ原の戦い,長篠の戦い,小牧長久手の戦いでは先鋒を務めた。なお長篠の戦いでは山本勘助の嫡子・山本勘蔵を討ち取った。
 天正18年(1590年)、徳川氏が三河から関東地方に移封されると、武蔵国比企郡に3000石を与えられた。関ヶ原の戦いのあった慶長5年(1600年)には長年の功績を賞せられて1000石を加増、騎馬同心30人の給分6000石を付属させられ、足軽100人の組頭となった。
 慶長13年(1613年)、家康の直命によって尾張藩の藩主に封ぜられた家康の9男徳川義直の付家老に転じ、武蔵国の4000石に加えて尾張国岩作で尾張藩より5000石、三河国寺部で幕府より5000石を与えられ、あわせて1万4000石を領して寺部城に居城した。慶長19年1614年の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に出陣して藩主義直の初陣を後見、元和2年(1616年)の家康死後、領国尾張に入った義直を直に補佐し、元和6年(1620年)に名古屋で死去した。享年79。墓所は愛知県名古屋市の興善寺。
 のちに、その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。その子孫は寺部に1万石を領して尾張藩家老として続き、分家は和泉国伯太藩で1万3000石の大名となった。 

 天正2年(1574年)三河国に生まれる。天正16年(1588年)徳川家康に出仕、小田原征伐,関ヶ原の戦いに出陣。慶長15年(1610年)父と共に家康の9男・義直に付属せられ、大坂冬夏両陣では先鋒を務めた。
 元和6年(1620年)父・守綱の死去により、三河と近江の遺領を将軍秀忠より賜り、義直からも尾張に5000石の知行を賜る。後、同心の知行として7000石を加増される。
 寛永18年(1641年)執政(家老)となる。寛永20年(1643年)隠居して家督を4男・治綱に譲り、隠居料として2000石を賜る。
 慶安元年(1648年)10月1日死去。享年75。
 5男・吉綱は兄忠綱の名跡を継いで元和9年(1623年)秀忠に仕え、後に武蔵野本藩主となる。6男・綱貞は徳川家光に仕えて従五位下大隅守に叙任、江戸南町奉行や大目付等を務めた。7男・長綱は重綱の死後、その隠居料だった2000石を相続して尾張藩に仕えることになる。長綱は寛文8年(1668年)9月朔日に享年26歳で早世するが、長綱の長男基綱は大名渡辺家を相続して野本藩主及び和泉国伯太藩主となり、次男・定綱は本家で尾張藩万石年寄の渡辺半蔵家を相続することになる。 

渡辺綱光 渡辺寧綱

 明和2年(1765年)、三河奥殿藩主・松平乗穏の3男として江戸に生まれる。天明2年(1782年)、尾張藩家老で三河寺部領主の渡辺綱通の養子となり名古屋に来る。天明3年(1783年)、藩主・徳川宗睦に御目見する。天明5年(1785年)江戸城で将軍・徳川家治に拝謁する。
 寛政12年(1800年)、養父の死去により家督を相続し、加判に列する。享和2年(1802年)、実兄・松平乗友の次男・豊吉(規綱)を養子に迎える。文化元年(1804年)、隠居して家督を規綱に譲る。
 天保9年(1838年)10月9日に死去した。享年74。歌道に秀でており、国学者で歌人の村上忠順は弟子。 

 文化7年(1810年)10月27日、尾張藩家老・渡辺規綱の長男として寺部に生まれる。
 文政2年(1819年)父の隠居により家督相続。天保10年(1839年)家老となる。天保7年(1836年)9月、三河加茂郡滝脇村で発生した加茂一揆は、周辺の藩、旗本領にも波及、渡辺家の三河寺部陣屋の求めで尾張本藩から加勢の兵が派遣された。天保14年(1843年)、人事刷新を理由に家老を罷免される。嘉永7年(1854年)ペリーの浦賀来航により、2月、江戸に出府し、江戸近海警衛に当たる。安政元年(1855年)再び家老となる。従五位下飛騨守に叙任。安政2年(1856年)家老職を辞任する。
 万延元年(1860年)5月8日死去。享年51。家督は嫡男・綱倫が相続した。 

渡辺綱倫 渡辺綱聡
 天保4年(1833年)、尾張藩家老渡辺寧綱の長男として生まれる。万延元年(1860年)、父寧綱の死去により家督相続。文久元年(1861年)、皇女和宮の降嫁の際に、幕府より尾張藩に道中警護の命が下り、中仙道で警護に当った。文久3年(1863年)、家老となる。同年、従五位下・飛騨守に叙任。元治元年(1864年)7月、禁門の変の際に、銃隊100人を率い京都御所南門を守備した。長州兵との戦闘で敗れた責任を取って同年9月13日、自害する。享年32。家督は、8月に生まれたばかりの長男綱聡が相続した。 

 元治元年(1864年)8月17日、尾張藩御年寄加判渡辺綱倫の長男として生まれる。同年9月、父・綱倫が禁門の変の際に、長州兵に敗れた責めを負って自害したため、同年12月、渡辺家の家督を相続。幼いため、存命であった隠居の曽祖父・規綱及び分家で尾張藩御年寄列の渡辺新左衛門在綱の後見を受けた。慶応元年(1865年)、尾張藩年寄となる。明治2年(1872年)、代々治めた三河寺部領を政府に奉還する。
 明治33年(1900年)、男爵となり華族に列する。昭和4年(1929年)11月10日死去。享年66。 

渡辺恭綱 渡辺親綱

 渡辺主水家初代当主。徳川吉宗と従兄弟である。 万治元年(1658年)10月、後に伊予国西条藩初代藩主となる松平頼純の長男として江戸で誕生、紀州藩士渡辺直綱に養育される。紀州藩初代藩主・頼宣に合力米500石を給される。寛文7年(1667年)、2代藩主・光貞より500石の加増を受ける。寛文8年(1668年)に養父・直綱が病死する。寛文9年(1669年)、知行を2000石に加増される。
 14,5歳の時に、直綱の嫡子・令綱に伴われて紀州に来て、藩主・光貞より渡辺姓を名乗るように命じられる。貞享5年(1688年)、義兄・令綱が不行跡を理由に隠居謹慎を命じられる。この処分は、令綱が父の遺領のうち3000石を恭綱に分与するようにとの遺言を実行しなかったことが光貞の上聞に達したためとされる。元禄2年(1689年)、合力金300両を賜る。正徳4年(1714年)に隠居して家督を嫡男の豊綱に譲る。元文2年(1737年)閏11月17日死去。享年80。 

 享保12年(1727年)、紀州藩士・渡辺豊綱の子として誕生した。享保15年(1730年)に豊綱が死去した際、松之助(親綱)は幼いため、家督は叔父・則綱が相続し、その嫡子となる。寛保2年(1742年)、則綱の死去により家督と知行2000石を相続する。寛保3年(1743年)、大寄合となる。
 寛延2年(1749年)、年寄の列に加えられ1000石の加増を受け、江戸で勤務する。同月、番加判となる。寛延3年(1750年)、母里藩松平家(松平直員)の挟箱持が渡辺家の列を通り抜けようとして、馬に挟箱の棒を当てて驚かせ、無礼に怒った渡辺家の馬丁が、脇差で挟箱持を斬殺する事件が起こる。幕府への遠慮で加判の列を免じられ、国元に帰される。後、再び加判に列する。
 寛政元年(1789年)8月23日死去。享年63。家督は次男の戴綱が相続した。3男の正博は、伊達源左衛門正賀の養子となり家老を務め、従五位下・但馬守に叙任、3300石に加増を受けた。