G011:渡辺 満 | 源 融 ― 渡辺 綱 ― 渡辺 安 ― 渡辺 満 ― 渡辺範綱 | G012:渡辺範綱 |
リンク | G013 |
渡辺守綱 | 渡辺重綱 |
---|---|
江戸幕府旗本。通称は半蔵。徳川家康に仕えた。槍が得手であり、1562年の三河国八幡の合戦で今川氏真の将・板倉重貞に敗れた際、後尾にあって奮戦したこと以来、「槍半蔵」と称されたという。「鬼半蔵」の服部正成と並び称された。三河国額田郡浦部村出身。三河寺部城主。 |
天正2年(1574年)三河国に生まれる。天正16年(1588年)徳川家康に出仕、小田原征伐,関ヶ原の戦いに出陣。慶長15年(1610年)父と共に家康の9男・義直に付属せられ、大坂冬夏両陣では先鋒を務めた。 |
渡辺綱光 | 渡辺寧綱 |
明和2年(1765年)、三河奥殿藩主・松平乗穏の3男として江戸に生まれる。天明2年(1782年)、尾張藩家老で三河寺部領主の渡辺綱通の養子となり名古屋に来る。天明3年(1783年)、藩主・徳川宗睦に御目見する。天明5年(1785年)江戸城で将軍・徳川家治に拝謁する。 |
文化7年(1810年)10月27日、尾張藩家老・渡辺規綱の長男として寺部に生まれる。 |
渡辺綱倫 | 渡辺綱聡 |
天保4年(1833年)、尾張藩家老渡辺寧綱の長男として生まれる。万延元年(1860年)、父寧綱の死去により家督相続。文久元年(1861年)、皇女和宮の降嫁の際に、幕府より尾張藩に道中警護の命が下り、中仙道で警護に当った。文久3年(1863年)、家老となる。同年、従五位下・飛騨守に叙任。元治元年(1864年)7月、禁門の変の際に、銃隊100人を率い京都御所南門を守備した。長州兵との戦闘で敗れた責任を取って同年9月13日、自害する。享年32。家督は、8月に生まれたばかりの長男綱聡が相続した。 |
元治元年(1864年)8月17日、尾張藩御年寄加判渡辺綱倫の長男として生まれる。同年9月、父・綱倫が禁門の変の際に、長州兵に敗れた責めを負って自害したため、同年12月、渡辺家の家督を相続。幼いため、存命であった隠居の曽祖父・規綱及び分家で尾張藩御年寄列の渡辺新左衛門在綱の後見を受けた。慶応元年(1865年)、尾張藩年寄となる。明治2年(1872年)、代々治めた三河寺部領を政府に奉還する。 |
渡辺恭綱 | 渡辺親綱 |
渡辺主水家初代当主。徳川吉宗と従兄弟である。 万治元年(1658年)10月、後に伊予国西条藩初代藩主となる松平頼純の長男として江戸で誕生、紀州藩士渡辺直綱に養育される。紀州藩初代藩主・頼宣に合力米500石を給される。寛文7年(1667年)、2代藩主・光貞より500石の加増を受ける。寛文8年(1668年)に養父・直綱が病死する。寛文9年(1669年)、知行を2000石に加増される。 |
享保12年(1727年)、紀州藩士・渡辺豊綱の子として誕生した。享保15年(1730年)に豊綱が死去した際、松之助(親綱)は幼いため、家督は叔父・則綱が相続し、その嫡子となる。寛保2年(1742年)、則綱の死去により家督と知行2000石を相続する。寛保3年(1743年)、大寄合となる。 |