『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。 |
『日本書紀』巻第一の第五段の第六の一書では、伊弉諾尊が火神カグツチを斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある岩群・五百箇磐石となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、カグツチの血が五百箇磐石を染めたために磐裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだとしている。 『日本書紀』巻第二の第九段本文によると、葦原中国へ派遣された天稚彦の死後、高皇産霊尊が次に遣わすべき神を決めようとした時、選ばれたのは経津主神であった。すると、熯速日神の息子・武甕槌神(タケミカヅチ)が進み出て、「経津主神だけが大夫(雄々しく立派な男の意)で、私は大夫ではないというのか」と抗議し、経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国を平定させることにした。 『出雲国造神賀詞』では、高御魂命が皇御孫命に地上の支配権を与えた時、出雲臣の遠祖・天穂比命が国土を観察し、再び天に戻って地上の様子を報告して、自分の子の天夷鳥命に布都怒志命(経津主神)を副えて派遣したとされている。 一方、『古事記』では経津主神が登場せず、思金神が天尾羽張神もしくはその子の建御雷神を送るべきだと天照大御神に進言する。天尾羽張神が建御雷神のほうが適任だと答えたため、建御雷神が天鳥船神を副えて葦原中国へ天降った。 経津主神は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮,鹿島神宮のある常総地方が中臣氏の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。 経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。神武東征で武甕槌神が神武天皇に与えた布都御魂の剣を神格化したとする説、物部氏の祭神であるとする説などがある。なお、『先代旧事本紀』では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。『古事記』では、建御雷之男神の別名が建布都神または豊布都神であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載している。 布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の奉斎社であり、かつ武器庫であったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神で祖神であったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたとする説がある。
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