文徳源氏

K318:文徳天皇  源 能有 G033:源 能有

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源 能有 源 当時 源 相職

 同じ文徳天皇の皇子である惟仁親王(清和天皇)の兄でありながら、生母の身分が低かったこともあり、皇嗣からは早い段階で除外されていたらしい。第一親等の皇族でありながらも、当時の慣例に倣って源姓を賜り臣籍降下した。能有の兄弟の多くがこれと同様の道をたどり、その子孫は後世文徳源氏と呼ばれる。
 能有は朝廷の儀礼や政務に通じた有能な人物として知られ、貞観4年(862年)に従四位上に直叙されると、以後徐々に中央官界において頭角を顕し、弟の清和天皇、それに続く陽成天皇の治世をよく輔けた。その能力は藤原基経からも評価されてその娘を娶る。その後、正三位左衛門督,左近衛大将,大蔵卿,検非違使別当,民部卿,按察使を歴任する。更に宇多天皇の信任が厚く、符宣上卿(太政官符を発給する際の上卿)として28回も名を連ね、『日本三代実録』編纂開始時には源融,藤原良世と先任の上卿2人がいるにも関わらず撰国史所総裁を務めていること、寛平7年(895年)には位階昇進の人事草案を提出する擬階奏を行っていることから、藤原基経没後は能有が事実上の政権担当者として寛平の治を押し進めたと考えられている。この年の暮れには「五畿内諸国別当」に任じられ、翌寛平8年(896年)には平季長を山城国問民苦使に任じて、その報告を元にして院宮王臣家による土地の不法拡大を禁じる太政官符などの農民保護政策を打ち出している。この年には右大臣の位に昇るが、これを極官として、その翌年に病を得て薨去。享年53。寛平9年6月16日に贈正一位。
 また菅原道真と親しく、道真の詩文集『菅家文章』には能有に頼まれて自宅の竹を能有邸に移植した時の漢詩や能有追悼の漢詩が収録されている。また、宇多天皇も寛平御遺誡の中で右大臣(能有)を失った衝撃について触れている。
 能有の男系の子孫には、後代保元の乱で活躍した源季実などが出ている。一方、娘の昭子は藤原忠平の妻として師輔らを産み、同じく柄子は貞純親王の妻となって源経基を産んでいる。即ち、師輔以降の藤原摂関家と、経基以降の清和源氏という二つの大族に、その血統を伝えたことになる。

 元慶6年(882年)従五位下に叙位される。その後、侍従,左少弁,右中弁,左中弁,左京亮,右衛門権佐などを経て、延喜11年(911年)9月13日従四位上参議となり、同年検非違使別当に補任された。延喜21年(921年)従三位中納言になったが、同年5月4日薨去した。没年齢については、父源能有(845年−897年)の生没年との関係から享年54とするのが最も自然と思われる。遺骨は粉にして器に入れられ、東山の僧蓮舟法師のもとに安置されたという(『左経記』)。
 また、延喜6年(906年)の日本紀竟宴に参加したとき、下照姫を題として詠んだ和歌1首が残る。

 平安時代中期の官人。右少弁,左中弁,右大弁などを歴任。朱雀天皇の五位蔵人,蔵人頭,進物所別当,内蔵頭なども勤めた。兄弟の一人(源当相か?)も朱雀天皇の六位蔵人になっている他、藤原忠平,藤原師輔とも近い関係にあり(叔母源昭子は藤原忠平の妻で師輔らの母)、朱雀朝の宮廷において重要な役割を果たしていた。天慶6年(943年)4月9日卒去したが、最終官位は従四位下右大弁だった。娘に歌人の御形(生)宣旨がいる。
源 桓舜 源 当純 源 方弘
 平安時代中期の天台宗の僧。月蔵房と号する。天台座主慶円に天台教学を学び、貞円,日助,遍救とともに比叡山の四傑と称された。一時世俗を嫌って伊豆国で修行していた時期もあるが後に比叡山に戻る。1016年(長和5年)藤原道長の法華三十講の講師となって以来、朝廷の貴族の間で活躍した。1035年(長元8年)権律師、1039年(長暦3年)極楽寺座主、ついで法性寺座主と昇任し、1054年(天喜2年)権大僧都に至った。

 平安時代中期の官人・歌人。寛平6年(894年)正月に太皇太后少進になる。寛平8年正月に従五位下に叙される。寛平9年5月大蔵少輔に任ぜられる。昌泰3年(900年)縫殿頭になる。翌年の延喜元年(901年)7月摂津守になる。延喜3年2月少納言になる。延喜7年従五位上に昇叙される。
 『古今和歌集』に寛平御時后宮歌合のときに詠んだ和歌が1首入集している。

 平安時代中期の官人。伯父の和泉守源致明の養子になる。文章生から立身し、蔵人所雑色,六位蔵人,修理亮,式部丞,阿波守などを歴任した。長和4年6月、41歳で卒去した。藤原道長の家司的存在で、寛弘7年(1010年)に中宮藤原彰子の在所である一条院の東北対を道長の意志に従って期日通りに造営して馬を賜るなど、道長の信任を得ていた。事務能力に秀でた実務官人だったが、宮廷内における立ち居振る舞いは苦手だったらしく、清少納言に「方弘はいみじう人に笑わるる者かな」(『枕草子』104段)と酷評されるなど、女房たちの評判は芳しくなかった。

 

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