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1333年(元弘3/正慶2年)に後醍醐天皇の綸旨を受けて討幕軍に寝返った後、六波羅探題攻略や足利尊氏との戦いに参戦した。その後、子の惟直に家督を譲って隠居したが、1336年(延元元/建武3年)に惟直が多々良浜の戦いに敗れて自害したため、再び家督を継ぐこととなった。ところが、尊氏の調略で一族の坂梨孫熊丸が相続者として大宮司に選ばれたため、阿蘇氏内部で内紛が発生する。惟時はこれを抑えるため、やむなく北朝側に寝返った。 しかし家中で不満が相次いだため、1349年(正平4/貞和5年)に再び南朝側に帰順する。1351年(正平6/観応2年)、家督を養嗣子の惟村に譲ったが、惟村の実父・惟澄が当主となって実権を握っていた。1353年(正平8/文和2年)に死去。
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1333年(元弘3/正慶2年)、幕命を受けて義兄弟の阿蘇惟澄(恵良惟澄)と共に楠木正成が立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、護良親王の命を受けて討幕運動に活躍した。しかし、九州における討幕運動においては、鎮西探題の北条英時の鎮圧を受けて失敗してしまった。1336年(延元元/建武3年)、九州に落ちてきた足利尊氏を迎え撃ち、肥後国の菊池武敏,筑後国の蒲池武久,星野家能らと共に阿蘇一族を率いて多々良浜の戦いにて戦ったが、松浦党の離反により合戦は敗北。阿蘇勢も敗れて惟直は重傷を負い、弟(長男とも)九郎惟成らと肥後へ敗走するが、三瀬峠を越えた地点で追手の千葉胤貞に捕捉され壊滅、惟直は肥前国小城郡天山付近(白坂峠など諸説ある)にて自害した。墓は阿蘇の煙が望見できる天山山頂にある。 |