清和源氏

G632:伊那為扶  源 経基 ― 源 満快 ― 伊那為扶 ― 諏訪部幸扶 G633:諏訪部幸扶

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三刀屋扶永 三刀屋扶重

 承久の乱で幕府側として活躍し承久3年(1221年)9月に北条義時から三刀屋郷の地頭職を与えられ下向し、三刀屋の名字を名乗った。
 鎌倉時代中期になると北条氏の権力が増大し、多くの鎌倉御家人が所領のある地方へと下向した時期である。後に戦国大名や戦国武将として活躍した一族はほとんどがこの時代に地方へと下向している(例 毛利氏,吉川氏など)。

 建武の新政の後の1335年、足利尊氏が武家政権の樹立を目指して鎌倉にて挙兵すると、足利直義から三刀屋氏当主の扶重に軍勢を催促されている。出雲国守護の塩冶高貞も足利尊氏に味方、三刀屋扶重も尊氏方に属し、1337年には北陸方面で戦い、金ヶ崎城攻略戦や美濃国での北畠顕家への押さえに当たった。その後、塩冶高貞は謀反により討伐されると、三刀屋氏は勢力を伸ばしてきた山名氏の傘下に入った。1391年、山名満幸の明徳の乱では山名氏の傘下を離れ、幕府の指示に従って、山名氏討伐に傘下している。
三刀屋忠扶 三刀屋久扶

 山名氏の没落後は新たに守護となった京極高詮に従い、山名氏残党討伐を行っている。その後は京極氏の家臣となり、守護代の尼子氏の強い影響を受けるようになった。1467年から始まる応仁の乱では出雲国守護京極持清は細川方に組し、三刀屋忠扶も上洛して山名方の斯波義廉と戦っている。翌年には近江国に転戦して六角氏とも干戈を交えた。
 その頃、出雲国では守護代の尼子清定が各地の反乱を鎮圧し、主家の京極氏をしのぐほど権力を持つようになった。そして尼子経久は守護代から戦国大名への道を歩き始める。1482年、ついに幕府により尼子経久追討の命令が下り、三刀屋氏も経久追討に加わった。一度は蟄居を余儀なくされた尼子経久が謀略をもって再起すると、三刀屋忠扶は経久に帰順した。

 享禄元年(1528年)、父である頼扶より家督を継承。天文9年(1540年)、主君尼子晴久に従って毛利元就の拠る吉田郡山城の戦いに参加。篭城する毛利軍に対し尼子軍は長期戦を展開、久扶は土取場の合戦に活躍する。翌年に陶晴賢率いる大内氏の援兵に敗れた晴久は出雲へと撤退する。この大敗北に三刀屋氏は宍道氏,三沢氏等と共に大内氏側に寝返る。天文12年(1543年)、大内義隆は月山富田城を攻めるも落とすことはできず、これにより多くの出雲国人衆も再び尼子氏へと帰参。これに久扶も帰参している。この後に晴久は反撃に転じ、大内義隆は敗走、養子大内晴持が事故死するなどの人的損害を被り山口へと敗走した。
 その後、晴久は出雲国内の家臣統制に力注ぎ、家臣達に遍諱を与えている。弘治3年(1557年)、久扶は遍諱を受けており、これが「久」の字に繋がっている。
 永禄元年(1558年)、毛利氏が石見小笠原氏を攻撃、晴久は自ら出陣し、久扶も参加。忍原にて毛利氏に大勝する(忍原崩れ)。永禄3年(1560年)、晴久が突如として急死し嫡男尼子義久が当主を急遽継承する。
 永禄5年(1562年)、石見銀山の要衝である山吹城にて籠城する本城常光が毛利氏に服属、久扶はこれに三沢為清,赤穴盛清等の将と共に寝返る。久扶が居城とする三刀屋城は、毛利氏にとって重要な兵站基地であり、尼子氏家臣・立原久綱が攻撃に出向くも、永禄6年(1563年)には地王峠にて立原久綱を敗走させている。後に白鹿城攻め,第二次月山富田城攻めに参加、三沢為清,米原綱寛らとともに小早川隆景の傘下に入り、菅谷口の攻めの先鋒となっている。
 永禄9年(1566年)、ついに月山富田城にて尼子氏は降伏、滅亡する。
 永禄12年(1569年)、山中幸盛率いる新宮党遺児,尼子勝久が忠山城にて尼子再興軍が挙兵、これに毛利氏に対して不満を持っていた尼子旧臣は続々と参加。久扶はこの勝久の挙兵に参加しようとしたものの、他家臣団からかつての行動から拒絶され、毛利側に参加している。しかし、この後に布部山の戦いにて再興軍は敗走、これに勝久は逃亡する。天正2年(1574年)に尼子再興軍は因幡にて活動を開始。久扶は毛利氏武将吉川元春と共に私部城で交戦している。久扶は同時期に毛利輝元への起誓文を提出し忠誠を誓っていはいるものの、軍役を拒否することもあり、かなり独立した権限を持っていたようである。再興軍は因幡から織田信長家臣羽柴秀吉の配下となる。天正6年(1578年)、上月城の戦いが起き、久扶は参加している。再興軍は秀吉の転進により孤立し、上月城は開城。尼子勝久は切腹し、尼子再興の夢は途絶えた。
 天正14年(1586年)、毛利氏に従って小倉城の戦いに参加。肥後国にて国一揆を鎮圧するため、子である孝扶と共に出陣している。天正16年(1588年)、毛利輝元,吉川広家,小早川隆景が上洛した際、久扶も同行し徳川家康と面会していると言われている。この家康との面会を主君輝元から嫌疑をかけられ、ついに本領を没収、追放されている。その後、京に上りの四日市村にて死去した。