<神皇系氏族>天神系

KD03:庄 家弘  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉弘行 ― 庄 家弘 ― 庄 家次 KD04:庄 家次

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庄 家次 庄 朝次

 本来なら庄氏分家であったが、家長の嫡子である庄小太郎頼家が一ノ谷の戦いで若くして戦死した事から、家長によって頼家の養子として迎えられ、児玉党本宗家7代目を継ぐこととなる。家長が一ノ谷の戦いにおいて、武功を上げ、恩賞として備中草壁荘地頭職を与えられ、家次も備中国の地頭として赴任することとなり、庄氏本宗家の本拠地である児玉郡北部の栗崎館を去る。そして、そのまま備中に永住し、家次の一族は備中庄氏となった。結果として北部国境付近にある児玉党(児玉庄氏)本宗家を継ぎ、栗崎の領地を守ることとなったのは時家であり、彼が本庄氏を名乗ることとなる。
 『吾妻鏡』の建長2年(1250年)3月1日条、造閑院殿雑掌の事、において、「本庄三郎左衛門」の名で記載されているのが、文献上での家次の名の初見であり、弟である四郎左衛門尉時家の名も見られる。これが家次の名が確認できる初めてであり、最後である。弟である時家に対し、余りにも登場していないが、これは『吾妻鏡』が東国主体の内容である為と考えられ、西日本で活動していた家次は余り確認されていなかったものとみられる。また、『吾妻鏡』の人名の誤記や混同の多さから考えて、本来は、「庄三郎右衛門」と考えられ、本庄三郎左衛門は誤記と考えられる。『吾妻鏡』の記述から、本庄氏を初めて名乗ったのは弟の時家と考えられる。

 生まれは、武蔵の栗崎館あるいは備中の猿掛城かその居館と考えられる。通称は新左衛門尉だが、のちに大瀧左衛門尉となる。
 13世紀中頃の嘉禎4年(1238年)2月17日条に4代将軍藤原頼経の入洛に際し、192騎いる先陣の御所随兵の25番にその名が見られるが、阿保,猪俣,四方田など武蔵国児玉郡周辺の武士と並べて記されている。また、同年6月5日条に、将軍家春の御輿としてその名が見られる。 一考察として、家次が備中へ移住したことで、庄氏本家の領地を弟の時家が守ることとなったが、家次の子息である朝次も武蔵国へあずけられ、時家と共に活動したと言う。
 児玉庄氏の伝承通りであるのなら、彼が猿掛城の3代城主と考えられるが、家次の他の子息が継いだ可能性もある。   
 『児玉党系図』では、「本庄二郎左衛門家次(庄家次)の子、大瀧左衛門尉朝次」として名が記されている。これは後に、武蔵国秩父郡大瀧(秩父南部)へ移住し、その際に改めた為、新左衛門尉から大瀧左衛門尉になったと記されている。

庄 資房 庄 資政

 父は本庄有次とされる(複数系図が存在している為、断定はできない)。資房の代から備中庄氏は「資」を通し字とする様になった。
 系図の記述によると、庄左衛門四郎資房は、片山村,幸山城,高山城を領したとある。元弘年間に鎌倉幕府方の北条仲時(越後守)軍に従い、そのまま京へ落ち、共に東国へ逃れようと近江国まで行き、番場宿の蓮華寺で仲時の一門と共に忠死したとされる。子息はその後、南朝に属して戦うことになる。
 猿掛城・幸山城(高山城)の2城の城主と考えられるが、猿掛城に関しては諸説あり、子息の1人である資政が築いたと言う考えもある。あえて家長を猿掛城の初代城主として考察した場合、家長・家次・朝次・有次(時次を有次の弟とした場合)の後を継いだということであるから猿掛城5代城主と考えられる。この考えに則った場合、資氏は高山城・幸山城を継ぎ、その弟で養子となった資政は猿掛城を継いだことになる。

 父庄左衛門四郎資房の後を継いだ兄の庄七郎資氏の養子となった。兄の養子となった資政は猿掛城主となり活動した。系図上では、猿掛城の7代か8代城主ということになるが、現在の系図研究上、6代か7代城主と考えられる。兄資氏が一時的に猿掛城主になっていたかが不明であるため、細かい点で断定できない。
 系図の記述によれば、資政は南朝に属し、文和2年(1353年)、北畠顕能に従い、足利尊氏の執事である高師直と合戦を行い、軍功を挙げ、感状を賜ったとある。ただし、師直は観応2年(1351年)に処刑されたとされるため、感状を賜ったのが文和2年と言う意味であり、それ以前(1340年代)に度々合戦を繰り広げたと考えられる。
 一説に、猿掛城は資政が築いたものと考えられている。これは、家長が城を築いたと系図にはあるが、それ以降、資政の代になるまで猿掛城に関する記述がなく、草壁荘の地頭職を与えられていた家次系本庄氏が秩父郡の方に移住していたと別の系図に記述されているためである。この説に基づけば、資政が猿掛城の初代城主であり、14世紀頃に築城されたことになる。
 複数ある系図の一つでは、資氏の実子を庄資昭としていることから、資氏の養子となった資政がさらに資昭を養子にしたとも考えられる。
出生地については、現在の総社市とも考えられる。

庄 資昭 庄 元祐

 系図には庄資政の後に名が記されているが、実父は庄資氏(幸山城2代城主)と見られ、資政(資氏の弟)は義父と考えられる。資氏と資政は、共に南朝に属して活躍した武将である。資昭の子息は、庄氏貞と庄資定が見られる。系図に「資定 信濃」とあることから子息の1人は東へ移住したものと見られる。
 系図の記述によれば、永和3年(1377年)に朝鮮国使が来た時、足利義満の執事である細川右京大夫よりの被命で、馳走役になったとある。明徳3年(1392年)に南北朝廷が和睦し、南帝が入洛すると、義満により供奉の将となる。また、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱の時には、畠山満家に従軍した功があると記されている。
 別系図の伝承によれば、「後時資」とあり、庄時資に改名したと見られる。また、資昭の曾孫の代までは猿掛城主とあり、それ以後は松山城主と記されている。

 備中守護代の家柄。早くから守護細川氏の力が衰えていた戦国時代の備中においては、国人衆が尼子氏・大内氏などに分かれて勢力争いをしていた。当初は連携して勢力伸張を図っていた荘氏と三村氏であったが、永禄2年(1559年)に猿掛合戦で干戈を交える。この対立は容易に決着はつかず、三村家親の要請を受けた毛利氏の仲介でようやく和睦に至った。その結果、荘為資あるいはその一党である荘実近(穂井田)の養嗣子として元祐は荘氏に迎えられた。
 荘氏の養子となった元祐は荘氏代々の通字である「資」を以て「元資」と改名し三村氏分家として、毛利氏麾下の武将として、元資はよく働いた。
 永禄10年(1567年)の明善寺合戦では、宇喜多直家に暗殺された三村家親の弔い合戦として三村軍の右翼を任されたが、総軍苦戦の中で惨敗を余儀なくされた。しかし、以後は毛利氏麾下として備中国衆を率いて九州などに出陣・転戦。毛利氏はその活躍を賞賛している。
 元祐の最期については説が分かれている。同時代の資料には、元資は佐井田城(斉田城)をめぐる浦上・宇喜多勢との後詰合戦で討死し、その年次は元亀2年(1571年)9月4日であったとある。他説として、天正3年(1575年)の備中兵乱で本家備中松山の三村氏に味方し、毛利氏と干戈を交えて斉田城(佐井田城)にて討死したとする三村氏子孫の伝承・系図や、元亀2年(1571年)1月にやはり斉田城にて宇喜多勢と合戦して討死したとする毛利氏方の資料もある。

植木秀長

 秀長の代より領した地名からとって「植木」の姓を名乗るようになった。
 永正8年(1511年)8月、淀堤の戦いに父の代官として出陣し三好之長に味方して大内義興の軍勢と争い一番槍の功を挙げたのが初陣であり、この時18歳であったという。資信は在京賄領として和泉国にも拠点を持っており、ここを拠点にしてこの淀堤の戦いに参じたものと見られる。
 天文2年(1533年)に尼子晴久が備中に侵攻してきた時は尼子に対抗し、庄為資と共に尼子に付いた上野頼氏の拠る備中松山城を攻め立て頼氏を討ち、秀長の弟・若林資行は大松山を攻略し上野右衛門を討った。これ以後、備中松山城は為資が、猿掛城は穂井田実近が領することとなった。
 秀長は新たに佐井田城を築いて以後の植木一族の本拠としたようだが時期は不明である。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では三村元親が備前国の宇喜多直家と戦ったが秀長も『備前軍記』には三村方に交名が有り、これに敗れた後に佐井田城に籠城したものの宇喜多忠家率いる9,000の兵に囲まれた為、降伏して宇喜多氏へと鞍替えしたという。
 永禄12年(1569年)11月、三村元親は毛利へと援軍を要請し毛利元清・熊谷信直らを加えた軍団で佐井田城攻略を狙った。三村・毛利軍の包囲を受けた佐井田城では徐々に兵糧が欠乏し、窮地に立たされた秀長は夜陰に紛れて脱出させた嶺本与一兵衛を使者として宇喜多直家に援軍を要請した。これを受けて直家は戸川秀安を派遣し、12月に城を囲む三村・毛利軍と交戦し、穂井田実近を討ち取り三村元親を負傷撤退させるなど快勝し、首級を多数挙げた。しかしながら、この後より各書物で秀長の名は出なくなり、嫡子・秀資が佐井田城主に切り替わっており、秀長は佐井田城の戦いの後ほどなくして死去したと推測される。