SN02:讃岐千継 | 紗抜大押 星 ― 讃岐千継 ― 植田政景 | SN03:植田政景 | ● |
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十河一存 | 十河存保 |
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天文元年(1532年)、三好元長の四男として阿波勝瑞城で生まれる。讃岐十河城主の十河景滋(存春)の世子の十河金光が早世したこともあり、長兄の長慶の命により景滋の養子となって十河氏の家督を継いだ。 |
義賢の弟・十河一存の養子となり、1561年、一存の死によって家督を相続する。三好氏が織田信長と敵対したとき、存保は信長と争ったが、やがて四国平定を目指す長宗我部元親の勢力が伸びてくるとそれに対抗するため、信長と手を結んだ。後に兄である三好長治が討たれると勝瑞城に入り、実質上の三好宗家の当主となった。そして異母兄であり長治の仇でもある細川真之を攻撃し自害に追い込んでいる。 |
十河存英 | 十河存之 |
十河存保の子として生まれる。生年は不詳であるが、天正4年(1586年)に父が討死しているので、それ以前である。天正4年(1586年)、父が戸次川の戦いで戦死すると豊臣秀吉から所領相続を認められずに改易され、幼くして流浪の身となる。慶長20年(1615年)5月、大坂の陣に豊臣方として参陣し摂津尼崎で戦死した。 |
一存の養子となった十河存保の家老となる。存保より年上だったという。存保が織田信長に属するとこれに従い、土佐の長宗我部元親と戦った。信長の死後、長宗我部軍の猛攻を受けて存保が敗走すると同時に十河城の守備を任されていた存之も城を落とされて大坂へ逃れた。その後、存保が讃岐十河3万石を領すると共に讃岐へ戻った。 |